音楽の同一性についての一考察

「同一性と差異では差異が先にある」というのが最近の僕のものの考え方に大きな影響を与えている気がする(この辺『機械人間の棲むこの街で』の話がそう)。

たとえば音楽を作ることを考えたとき、「サビ前からサビに入るところの展開が激しすぎて、サビを境にして別の曲に聞こえる」というのは、曲を作る人なら少なからずぶつかったことのある問題だと思う。この問題について僕は、これまでならサビ前までは同一性を保ていた楽曲を、展開という差異がぶち壊した(言い換えれば同一性が前提で、差異はその上に成立しているもの)と考えていた。

しかしよくよく掘り下げるとそれは間違った解釈なのかもしれない。サビの前後で異なる音が鳴っているという差異が起きるのは(Aメロ、サビ、などと呼び方を変えることからも)当然だが、そうでなくてもたとえば1小節目と2小節目、もっといえば1小節目の1拍目と2拍目でだって異なる音が鳴るのはおかしいことではない。それを忘れていた。

つまり、多くの(あらゆるといってもいいのかもしれない)音楽において、その全編にわたって差異は単位時間ごとに常に発生し続けていたのだ。それも”常に異なる差異”が。

我々は音楽を聴くにあたり、そういった”常に異なる差異”が発生し続ける状況に晒されている。その状況に陥って初めて、それに基づく発展的なものとしての同一性が登場する。まさに先ほどの件についても「曲の展開によって発生する差異がどの程度までであれば、我々はその音楽に”ある1つの楽曲としての同一性”を付与できるのか」という問題に転換できるようになる。つまり「差異の大小をどこまで許容できるのか」という議論を”同一性”と読み替えることができるのではないか。

この議論はより細かいレベルでも発生する。差異の程度問題は「この程度の旋律の動き方ならAメロとして許容できる」「この鳴らし方なら生音っぽく感じられる」「これ以上歪ませるとギターとして認識できない」というように、曲単位ではなくより細分化したアイデンティティの認定にも直結する。つまり、程度の異なる様々な差異の存在する中で、我々は目の前の音楽を異なる閾値をもって様々なレベル感の同一性に区切り、それによって連続的なものを量子化して認識している。そんな気がする。

もちろん、ここには楽曲自体の”現在”を”これまで”と比較した差異(ある意味でautoregressiveな差異)、だけでなく、音楽としての展開への”期待”と”実態”との乖離に基づく違和感もあるだろうとは思う。そこはまた次の機会に考えたい。