機械人間の棲むこの街で

千葉雅也『現代思想入門』を読み進める。大学時代に出会いたかった良書だけど、それこそ本なんていうのは本来読めない方が悪いので仕方がない。俺が不勉強なだけだし、学生時代にこっちばかり読んでいたら今の仕事には就けていなかっただろう。

むしろ僕はこれを読み進めるごとにどこか安心している部分がある。哲学についてはほぼ何も学ばずに日々感じたことをベースに物事を考え続けてきたこのブログが、知の巨人たちの思索の部分的な再発見になっていることがわかってきたからだ。それはとんでもない回り道でしかないけど、僕は全く新しいことを述べたいわけではないのでそれでもいい。

まだ第三章までしか読んでいないのだけれど、僕は本を読んでいるとすぐ自分の考えをまとめたくなってしまうので書いていく。

1. 差異と同一性

「第二章:ドゥルーズー −存在の脱構築」の記述の中で、差異と同一性に関する議論が紹介される。そこでは一般的に差異に先立って存在すると考えられがちな同一性だが、実際にはあくまで二次的なものとしている。そして一時的に(というか、あるまとまった期間ごとに)ある程度の同一性が担保されていながらも長期的には変化していることを、千葉さん自身の言葉「仮固定」でまとめている。

どこで読んだんだったか全く覚えがない(おそらくもう少し理系的な本の中の記述だったと思う)けど、物体(オブジェクト)と事象(イベント)の関係性に関する記述を思い出した。そこでは、マクロ的なオブジェクトとしては一時的な同一性を保っているようなものでも、ミクロ的に見ると連続的なイベントの継続で成り立っているに過ぎないことを指摘している。言い換えると、一般的に対比されがちなそれら2つの概念も、実際には物体は事象に内包される概念なのではないかという話だった。

この本の中でも例として「エジプトのピラミッドだっていつかは崩壊する」という記述があるけど、もっと単純な話でいえば、生まれた頃の僕と31歳現在の僕を比べたら、体細胞は丸ごと全部(さながらテセウスの船といった感じで)入れ替わっていて、物質としては丸ごと違うものになっているけど、まだ僕という同一性を保っている(はずだ)。つまり、小さな変化は常にイベントとして連続的に(差異という形で)発現し続けているけど、それでもある時間的なスパンの間はそれら小さな差異の蓄積を同一性として許容できる、何かパラダイムのようなイメージがある。

2. 人間の再動物化

僕は『我々は本当にただの機械』の中で、本能としてプログラミングされた生物の行動というものは機械における決まり切った一連の処理と同様に、自身の内外の環境からの条件をトリガーに特定の関数を走らせているだけであり、その実、本能的な機能になればなるほど挙動が機械的になるのではないかと書いた。

“つまるところ,動物らしさだろうと機械らしさだろうと、実は「programmedな行動を馬鹿正直に実行する態度」と説明できてしまう。その根源的には同じである評価指標を,アナログ感とデジタル感,あるいは暖かさと冷たさ,のような二項対立に落とし込むことは果たして本当に可能だろうか。” (我々は本当にただの機械)

現代思想入門を読んでからこの文章を読み返すと、自分がいかに不勉強であるかが再認識できる。この文の中には、それこそ構造主義的な二項対立への疑問などを含め、先人たちの言葉を読むだけで解決できたであろうことがたくさん書かれている。

その記述自体(本能的であることは機械的なものであること)は、その裏返しの表現として、人間が他の動物とは異なり「過剰さ」をもっているという形で述べられている。言い換えると、本能以上(というか生存以上)の機能性や選択の自由を持ち合わせた生物であるわけで、僕はそこに人間性を見出したいというのがあのブログ記事の要旨だった。

だが「第三章 フーコー −社会の脱構築」の中でフーコーの指摘として述べられている内容はそのもう一歩先を行っていた。具体的には、安心・安全な社会を実現するために人間の行動の過剰性を減らすことが「人間の再動物化」に繋がる。(僕の上の表現でいえば再動物化というよりは機械化かもしれないけど、その細かな表現の差異はともかくとしても、)社会の自由度を減らす(極端にいえば人々の行動を制限する)ことにより、人間の行動から人間性に該当する部分ばかりが削げ落ちていき、それは逆に人間が動物に近づいていくことを意味している。僕にはこの逆側からの視点はなかった。

もうちょっと色々と専門的な書籍まで頑張って読まないとねえ。さっさと研究も進めなきゃいけないんだけど、投稿してる論文は査読者と殴り合い続けて1年近く経つし、どうなることやら。