ワニ

ワニ

びっくりするほど人がいない。午前1時のファミレスで論文書いたりワニが死んだりしている。実はワニはほぼ毎日読んでいた。

ボーッとtwitterを見ていて思ったのだが、ストーリー上あらかじめ死ぬことが決定づけられている存在の死を「楽しみにする」ことは不謹慎なのだろうか。人によっては、現実の誰かではなく物語上の非実在の死ですら消費することを許さないようだった。

18時50分から19時半までずっとtwitterを眺めていたのだが、19時を過ぎたあたりから急激に異変が起きた。(おそらく単なる慣習的に)19時ぴったりに更新されるようになっていた100ワニが最終日19時を過ぎても上がらなかったことで、その直後から「最終日は20時更新だと本人がスッキリで言っていた」なるデマが急速に拡散され始めた。見てたけどまじでものすごい勢いだった。(19時20分に100日目が上がると収まったが)

あんま批評とかしたくないんだけど、スポーツがルールという制約の中で最大限のパフォーマンスを競い合うのと同様に、決定づけられた無自覚な死までの時間を制約とすることで、なんの変哲もない「日常系」に他と違う味を出すというのはやり方として結構面白かった。そこで死を回避するためのどうこうなんていうのはルールを変えるムーブであってナンセンスになる。

どうも伏線というものが好きになれなくて、ストーリーを追うときにはなるべく頭を空っぽにしてその瞬間の出来事として消費するようにしている。過剰に伏線を気にしすぎると結果ただの深読み厨みたいになってしまうんだなというのがここで改めてわかった。特にこういう「日常系」においてあらゆる不審な出来事が伏線になるなんてことはない。伏線は回収されて初めて伏線になるのであって、自分の人生を振り返った時に「伏線になりそうだったもの」のうち99.9999%ぐらいは後で何も引き起こさずに消えていったはずだ。何が言いたいのかというと、死ぬ前にまるでそこまでの人生を頑張った褒美のように伏線が回収されるのとかはわざとらしく見えてしまってちょっとなあという感じだった。

もし今回の作品の絵柄が普段の作者のスタイル(どうぶつーズとか)だったらここまでバズってただろうか、とかいう反現実を色々と考えている。そしてワニが死んだ瞬間に怒涛のマーケティング展開が始まってうおおという感じだった。こんなに話題になった作品だし作者にはもちろん潤ってほしいので本は買います。研究室に置きます。