映画『THE PLATFORM』を考える

THE PLATFORM/ザ・プラットフォーム』はなんかのタイミングで知って、観たいと思っていながら完全に忘れていた作品。アマプラで配信されているのを見かけてすぐに視聴した。スペイン映画を観るっていうのはあまり経験したことがなくて新鮮な感じがした。ちなみに、あの台みたいなのが「プラットフォーム」らしい。

以下色々書いてるけど、何かに触れないとこういういろいろなことを考えることもできないわけで、頭ごなしに否定しているわけではないことは先に述べておきたい。普通にネタバレしてるので注意。

第一には面白かった。想像していたのとは少し違ったけれど。

観るまでは『THE EXPERIMENT』みたいに、極限状態にある人間の振る舞いがフォーカスされた映画だと思っていたけど、どちらかというと人間の(というか動物の)自己中心性の方がより大きく取り沙汰されている印象。とりあえずグロテスクなシーンに至るまでが早い。なんとなくだけど、せっかく本を持ち込んでいる珍しい主人公ゴレンも、それが性格の優しさを表すぐらいにしかなっていなくて、世界や人生について示唆的に語り合う時間をもう少しだけ伸ばしてほしかったなあ。

“伝言”とその役割

二月目のルームメイトとして同じ階に登場した「25年勤めた女性」の話をもとに、「管理者は”穴”がこんな状況にあるとは知りもしない」という仮定で話は進んでいく。しかし、そもそも月末には全員が催眠ガスで眠らされルームメイトの決定やフロアの入れ替え(そして清掃?)が行われているわけなので、管理者が内状を知らないとは到底言いがたい。単に彼女のような”末端の面談担当員”には(たとえ勤続年数25年であろうが)知らされていないだけのことだ。そして「ルール2:何でも1つだけ建物内に持ち込める」で割と物騒なモノを持ち込んでいる人が多いこととの整合性はついているだろうか。ゴレンの禁煙と読書のために穴に入るっていうのは、現代日本でいえば厳しめの寺で中長期の修行をする程度のイメージだと思うけど、武器を持って入っていく人たちの差はどう生まれているんだろうか。

そして一番肝心な点として、「下の階でこんなめちゃくちゃなことが行われているとは知らない”管理者”という存在に対して現実を知らしめる」ための行為として、果たしてパンナコッタの返品は意味を成すだろうか。これは物語の成立にかかわってくる。

それは第一には、いつの間にか設定された「【最上階まで食べものが残る】ことをもって伝言が成立する」というゴールから始まる。あのゴール設定は、いくら謎の聖人みたいな老人からの助言があったとはいえ、所詮は”穴の中の人々”(今後は彼ら彼女らを”囚人”と呼ぶ)側の勝手な都合に過ぎない。この映画に対しては「神の作る世界 vs. 人類の勝手な都合」というような文脈が持ち出されることが多いが、個人的には綺麗に盛り付けられた料理を食べずに返品/残すことの方が「人間側の勝手な都合」としてはよっぽど重罪であるように思えてならない。その重罪の末に為せる伝言に大した価値はあるだろうか。

何より、最終的にあの”穴”が333階まであることが判明するわけだが、そもそもあの量で333階=600人以上の食を賄うことは到底無理なので、“管理者”は全員に十分な食事を提供するなんていうことは最初から想定していない。”食糧の分量を決定できるような立場の(つまり末端ではないような)管理者”であれば囚人のシャッフルなどの都合上は階数も分かっているはずだ。言い換えると、個々人が大量消費をしようがしなかろうがどうせ明らかに足りないので、この映画が消費社会を揶揄する資本主義批判を目的としているというのにもいまいち納得感がない。経済や消費というよりは資源やエネルギー問題に近いように思える。

そういう意味でも、どちらかというと偶発的に実現した「明らかに食が行き渡らないはずの”最下層の子供”にまで1品の完成された状態の料理が届いた」ことの方が人類にとってよっぽど示唆的(”示唆的である”とはまさにそれ自体が伝言となることである)なはずだ。まだ月の比較的初旬頃であったにもかかわらず下層の人々がかなり凄惨な姿で争ったり死んでいたりするなか、”最下層の子供”だけは(お腹は空いていたようだとはいえ)汚れひとつない姿でそこにおり、そういった点からも彼女は管理者側の差し向けている存在なのだろうと勝手に当たりをつけていた。やはり「16歳未満は入れない」という原則からどうしてもあの”子供”に意味を与えたくなってしまう。「実は16歳以上で本当にただの囚人だった」というパターンを除けばの話だが。

まあ、いくらゴレンや”25年”が自分の意思でこの穴に入ったとはいえ、食人老人は「精神病院か穴か」を選ばされているわけで(おそらく子供探し女性もそうなのではないか)、これは目にも明らかな牢獄であり、そこにおいて「特定の目標をクリアしたらゴールで全員解放〜」なんてことは起きるはずもないのだが。はずもないのだが、自分の意思で入った者たちは全てを良いように捉え、何かしらの形で願い出れば、そしてそれが伝われば環境が改善されるという淡すぎる期待を抱いている。

最上階とそれより下全てと

料理の徹底した品質管理の方も考察をしないといけない。レビューを眺めていると、割と「神と愚かな人類」のような構造を見出している人が多い。料理する側を神として、「環境を与えているにもかかわらず人間たちは欲に溺れて争いあい正しい資源配分にたどり着くことができない」というようなシナリオである。しかし忘れてはいけないこととして、あくまでこれらはどちらも人間の行いとして描かれている。穴の中で争い合っているのが愚かな人類であるのはもちろんだが、一方でパンナコッタに髪の毛が1本混入して激昂するのもまた現実に存在する愚かな人類なのだ。髪の毛が一本入っていようが食べられることに変わりはないが、それでも人間は怒り狂うのだ。

ただ、両者にはいくつか対比的に描かれている部分があり、それはたとえば求めているものの目にも明らかなズレ(質 vs. 量)であったり、たとえば食っている対象が異なるだけでやっていることは本質的には同じ(生き物を切り焼き食う vs. 人をナイフで割いて食う)であることだったりする。前者については、そもそも監獄である以上もう絶対量は増やさないのだろうし、”確率的に決定される不平等”なんかを描きたいんじゃないだろうか。

一方の後者に関しては、料理と食人それぞれの様子が明らかに意識して対比的に描かれていることからも、少なからず食肉へのアンチテーゼも含まれているのではないかと邪推してしまう。というか食肉へのアンチテーゼどころか、この映画に一貫していることとして料理を一度たりとも魅力的に映さないというのも地味に大きなポイントで、あれだけ空腹と極限を描こうとしているのに、完成された料理は常に監獄の蛍光灯に照らされ色あせた引きの描写のみで、拡大されるのは常に(生きている状態から完成されたものまで)カタツムリだ。人間を食うのも腹を満たすためというだけ。この映画において食欲とは常にグロテスクな存在で、睡眠欲やあるいは性欲すらもここまで汚くは描かれていない。

誰かに観てもらって感想を聞きたいとは思っているが、万が一この映画のせいで肉が食えなくなったらという不安で誰にも勧められない。

この映画における”神”

この映画で”神”という存在に関していうなら、”管理者”よりも遥かに重要なポイントがあると思っている。

それはゴレンたちが下っていく中で、配給される以上の食糧に手を伸ばす者たちを鉄パイプで殴り倒す描写。僕はこれを見たとき、平和をもたらすために行動する存在の方が結果的に他者に暴力を振るうことになるのだということを再確認した。よくいわれる話で、旧約聖書では悪魔は10人を殺し、神は200万人を殺したとされる。その神は、悪事を働いたものへの懲罰、あるいは世界の調和を維持するための行いとして殺しを行っている。食べるために殺している”悪の囚人”たちと、善を維持するために悪を殺す”ゴレン”では、結果的にゴレンの方が殺す人数は増える。なんというか、この構造に聖書の神と悪魔を見いだせしてしまう、ような気がする。

余談1:上下の話

てか上下の交流がなさすぎる。みんな一貫して「下に降りる理由がない」とは言うが、100階から101階に降りたところで届く食べ物の量に大差はない。ゴレンたちが下っていったときもそうしていた通り、50階より下までいけばその先はほぼ全部同じなのだ。むしろ50階以下であれば、下の階に弱そうな奴がいたら自主的に降りて殺して食う方が生存確率は格段に上昇する(ベッドがあるんだから飛び降りることだって不可能ではない)。その戦略をとっていた最たる存在が”子供探し女性”であり、(毎月毎月どこまで下っていっていたのかは知らないが)戦闘力の高い彼女は食料を得なくてもどこの階でも目についた人間を捕らえて食えたので生きていけた。まあ途中から結構やられてたけど。

何よりギャングとか派閥とかできててもいいレベルの場所でありながら、囚人の組織化がほとんどなされていなかった。持ち込んだ所有物の奪い合いすらほとんど発生していない。おそらくあの場所での最適戦略は、各層で仲間を作りながら下層に降りていき、反対する奴は(数の暴力で)殺して食いながら、持ち込まれた所有物を回収することで上階への移動手段や身の安全の確保、その他生活の利便性を可能な限り高めることなんじゃないか。こんな感じでやっていけば組織化できそうな気がする。方向性は違うものの、あの聖人みたいな男性がそれに一番近い。下っていくゴレンたちに共感して行動を共にする者が一人としていないことにも驚いた。

余談2:底について

あれだけ「穴の底には何がある?」と煽っておいて、穴の底では特に何も描かなかったの草。ただただ草。しかもいざ本編を見てみると実は底には一切興味がなく、目指すのはあくまで最上階だった。

あとこれは本当にどうでもいいんだけど、あんな高層エレベーターみたいな勢いで上がっていったら最上階で吹っ飛んで天井に激突するんじゃないかと心配になってしまう。

なんともいえないのは、途中で死んだただのやばい食人老人(”やばい食人老人”とは呼んでいるが、実際には下層に降りるとありふれた行動でこれといって奇人扱いされるほどのレベルでもなかったのだが)、その彼が死んでのち、まるで主人公を導く存在かのように振る舞い始めた。あれは結構疑問だった。

長く書きすぎた。また気が向いたら映画観返します。