地の果てでGenerative Artsを考える

青森に行ってきた。どうしてもみたかったRyoji Ikeda (池田亮司) の国内13年ぶりの展示『池田亮司展』が弘前れんが倉庫美術館で行われていたため。地の果てでやっていることもあり、人は少なかった。芸大とかの学生さんなのかな?というような連れだった人々も多少いた。

Ryoji Ikeda (official) | Facebookより

詳細は伏せるが、とりあえず圧巻だった。最初は「光を高コントラストかつ高速で明滅させれば圧巻に見えると思っているのだろうか…?」などの不信感も抱いていたものの、すぐに呑み込まれた。

池田亮司は1000 Fragmentsあたりをはじめとして、楽曲を聴くと(理解できないものに安易にこのラベル貼りをするのは好きではないが)、現代音楽というか実験芸術というか、彼が隠し持つ何かしらの緻密な考えに従って音を配置した結果として、”意図的に無意味が構成されている”という印象がずっとあった。この考えに呑まれると、「ある音がここに配置されているのは一体なぜなのか」という”配置の必然性の問題”にぶつかることになる。それは作品の”裏”を過剰に考察することにつながるという意味で危険なことだと思う。

しかしながら、公開されている一連の「池田亮司展 オープニングトーク」を読むと、このあたりの作品はどうも「データ」に基づいて生成されていることがわかる。ここから、芸術に限らず統計解析まで含めて、「データに基づく出力」という話につなげたい。

議論に先立って、そういったデータの入力の果てに作品が出力されるような芸術を、ここでは仮にData-Based Arts (DBAs)と呼ぶことにする。生成音楽をはじめとして、こういった類のものは世間では生成的(generative)と呼ばれることが多いが(ここではそういった生成的な芸術をGenerative Arts, GAsと呼ぶことにする)、生成的というと具体的なデータに基づくというより、その生成過程としてたとえばある確率分布を仮定して、その分布から乱数として吐き出されたデータが作品を織りなすような—データ自体は想定されているものの具体的には全く未知であるような—印象を持ってしまう。

先のトークによれば、彼は欧州原子核研究機構(CERN)での観測データなど、何かしらの観測や実験の結果をインスタレーションの生成のためのデータとして使用していると述べている。特に、星の動き方などの「すでに観測され不変な事実」を静的データと呼び、それを用いることを好んでいる。

いきなり結論からいうと、DBAsの作成にあたって彼がやっているのは2つ、「データの選択」そして「データと視覚を関係づける関数の設計」である。ここで関数とは、わかりやすいところでは y = f(x):データxを関数fに通すと出力yが出てくるという関係性であり、統計学でいうところのモデルの作成(原因と結果の関係性の記述)、もっと近づけるとすれば情報学的な意味での機械学習(ブラックボックス的な現象間の結合; i.e., 何かを入れたら何かが出てくる)とかなり近い作業だと思う。

一般的な意味で、データや数値を用いることの主たるモチベーションとは、客観的であろうとすることである。そして、客観的であるとは、出力あるいは生成の過程から主観性、恣意性を取り除くことである。つまりデータを用いるとは自分にコントロール可能な範囲を制限することであり、データをいじれてはいけない。別の言い方をするなら、静的データに基づいて結果を出力するということは、決定論的というか、すでに結果の半分以上は決まっており行為者には変える余地がないということでもある。

ここで人間に残されている余地は、

・どんなデータを用いるか

・どんな関数でデータを表現するか

の2点に限られる。

すなわちDBAsでは、人間が自由に要素を配置することと比べるとその主観性が大幅に目減りする。

極端な言い方をするなら、いったん上の2点、使用データとその表現方法さえ決まってしまえば、表現者側にはそれ以上の恣意性を入れ込む余地はない。それはつまり、データを使った瞬間に表現者は配置の必然性の説明責任から解放されることを意味する。その出力はあくまで”そういうデータ”に則って配置されているに過ぎず、気に入らなければ違う静的データを使えばいいだけだ。

2021年1月23日のAbleton and Max Community Japan #011 (AMCJ011)『作曲 vs 生成音楽』で述べられていた、松本昭彦 (@akihiko_japan)さんのアルゴリズム作曲に関する資料を引用したい。たとえば、僕がいうところの「原因と結果の関係づけ=関数設計」と「出力」の関係は、人間とコンピュータの分業として彼が「アルゴリズムや様式、構造の設計を人間が行う」「設計に従った忠実な出力作業はコンピューターにやらせる」と書いていたのに近い。この資料はもっと読まれてもいい。それぐらいの価値がある。

データについて

ここで、データについての疑問が浮かぶ人もいるかもしれない。出てきたものが気に入らないならデータを書き換えればいいんじゃないの、あるいは、自分で自由にデータを入力して作ればいいんじゃないの、と。しかし、それは完全に間違っている。データに基づいた出力において(それが芸術だろうが統計解析だろうが安全工学だろうが)、データを書き換えることは許容されない。池田自身も静的データを「普遍的な事実」と認識して作品に組み込んでいる以上は、(仮に出力されたDBAsに元の普遍的な事実を汲み取れるような解釈性が付与されていなかったとしても)データの客観性あるいは普遍性は維持されるべきなのだ。

例えば火星のデータだったら新しいとか古いとかなくて、事実だったりするじゃないですか。この場所、ここの座標軸がっていうのは、もう決定しているわけだから、未来とか過去とか、新しいとかってよりも、普遍的なものですよね。その裏にある音楽もそうですし。普遍化、一般化するっていう作業はしているのかなと思いますけどね。

池田亮司展 オープニングトーク (2) 歴史と未来について

たとえば、自分の感性に従ってメロディを入力したらAIが伴奏をつけて1曲完成できた、といわれてもそれはデータの入力でもなければDBAsともいえない。それこそまさに自分自身の意思を生成過程とした入力であり、つまりは単なる「ツールとしてのAIを活用した作曲」と呼ぶ方が実態に近い。

これは僕らのようなデータサイエンスに身を捧げる人間にとっても全く同じことがいえる。僕は、データとはあくまで実験や観測の結果が記録されたものだと理解している。そしてそれは暗黙的な(かつ非常に強固な)「データの生成過程は分析者から切り離されていなければいけない」という仮定に基づいている。実験や調査の結果データを歪める(=生成過程に行為者が介入する)のはご法度だし、それに基づいて吐き出された分析結果が意図せざるものだったとしてもどうしようもないのだ。確率分布なんていうのは行為者が介入できない生成過程の最たるものだし、そう考えるとDBAsとGAsの関係が見えてくるような気がする。

DBAsにせよデータサイエンスにせよ、データを以って何かしらの行為 (作品制作, 構造推定, 仮説検定, 将来予測…) を行う以上、データは行為者が自由に入力できるべきではなく、あくまで複数のデータの集合から選択できるに留めなければならない。さもなくば、データの自由な入力がそれ自体をもって恣意の塊と化してしまう。

最後に

先のAMCJの資料にもあった話として、コンピュータ資源さえあれば無限に生成できうるGAsにおいては、データの選択や関数設計も芸術として評価されるべきであるということは当然のことだ。ではここで、もし僕がこの展示にあるものを”非常に表面的に”トレースしてPythonで作り直したらどういう扱いを受けるべきかという問題を書き残しておきたい。大半の人は池田亮司展を「わあすごい」ぐらいで見ている、などと彼ら彼女らを謗ることは簡単だが(実際、先の資料でも音楽に関するMilton Babbittの引用として「聴き手にかつてないほどの音楽聴取の訓練、教養を要求する」と述べられている)、とはいえ選択されたデータや関数内部が公開されない状態で、表面的な出力のみからその構造を推定し、芸術性を評価することはあまりにも困難である。あるいは、美しいデータと関数を用いているにもかかわらず、出力に「わあすごい」とならない場合もある。我々はDBAsにおいて、最終的な出力(それは非常に表面的な結果でしかない)に対してどこまで意義を見出すべきなのだろうか。