ルッキズムと多様性社会

数年ぶりにぶっ倒れた。危うく救急搬送になるところだったし、挙句に腕が根元から折れるところだった。周りは口を開けば気を付けろと言う。心配してくれるのはありがたいものの、とはいえ、こんなもんは気を付けたからといってどうなるものでもない。気付いたら死んでいるというだけだ。いつだって仲間は突然いなくなるのだ。

これはあくまで俺の感覚でしかないけど、最近しきりに発言が問題になる世代の人たちというのは(まあ俺が想像している人たちが厳密に同じ世代なのかは調べていないので知らないが)、公共の場でダメなことをつい言ってしまうのが面白いことだと思っている節があるような気がする。そして多くの場合に、その発言をどこか「ジョークじゃんw」的な弁解で片付けようとする。

もっというと、この類の「冗談じゃんw」みたいな弁解というのは、弁解であると同時に「(この笑いが)なんでわかんないの?w」の反語でもある。そこには自分の笑いのセンスのなかに相手を引き摺り込むことで問題が表面化することを抑えようとする強力な圧力が加わる。

「これはあくまで笑いの一手法に過ぎないものであり、したがってその内容が仮にルッキズム的に相手を傷つけるものであったとしても不問とすべきだ」という主張は、残念ながら同意できるものではない。

ルッキズムに関してもっというと、特にあの世代の人たちに顕著なこととして、容姿にしても「褒めるなら許される」という考え方があるようにも思う。貶す/褒めるという行動は常に評価であり、さらには他者(あるいは他の瞬間の自分)と常に相対化される。これはひとえに、なにお前が評価してんだよの一言に尽きる。

ルッキズムに関する議論を今になってしているということは、その少し前に誰しもが目指そうとしていたはずの多様性社会とは一体なんだったのかという話になってしまう。元から社会は十分に多様だし、さらには多様性なんて目指そうとして向上するようなものでもないわけだが、現実にはそれを画一的なものとして見て見ぬふりをしてきただけに過ぎない。だから未だに夫婦別姓も同性婚も実現しない。自分の信じたい世界に”伝統”という名前を付けて維持しようとするのはあまり褒められたことではない。

成毛さんも言っていた。「変化についていけない人を老人と呼ぶ」のだと。

原宿で『LOUIS VUITTON &』展が始まっており、参加アーティストにRyoji Ikedaが名を連ねている。めちゃくちゃ行きたい。が、今の身体で県外に出るのは許してもらえそうにない。かなしみである。