神仏と地獄のから騒ぎ

馬鹿みたいに忙しい年度末だというのに、本当にいつぶりかわからないくらい久々に金曜の夕方から日曜の夜まで2日半フルで休みにした。もう2021年に2日半の休みをとることは(身体が壊れない限り)二度とないだろう。

家の近くのお寺に行ってお線香のお供えというものをやってみた。元来神仏や宗教にはあまり興味が持てないので乗り気ではなかったものの、人に誘われたのもあってまあよくわからないなりにやってみた。

しかし、よくわからないなりに見よう見まねでやっているだけなので当然やり方があっているはずもなく、結果横で眺めていた老人にずいぶん怒られた。それ自体は俺の勉強不足でしかなく申し訳ないとは思っているし、今思えば離れたところから少し眺めるでもしてやり方を学んでからお供えをするべきだったとは反省している。ただ、その先でひとつわからないことが起きた。その老人は一通り俺をどやして満足したのか、あるいはそれが正しいお供えの方法なのか、一通りお供えをした上でゴミをそこに置き去りにして帰っていった。これは個人的にかなり衝撃の出来事だった。

その場所の周りにはいくつか似たようなゴミが落ちていた。ただ、全ての人がそれを捨てているとは思えない量しか落ちていなかった。何より、色々と調べてみた限り寺では基本的に「失礼にならない振る舞い」が求められており、するとゴミをその場に捨てていくこと(それもゴミ箱などに入れるわけでもなく本当にその辺に捨てていくこと)が正しいとは思えない。

人々がこの場所にどういう目的で来ているのか、救われたいのか何なのかはよくわからないものの、真にわからないのは、供えるとか、祈るとか、そういう”やること”だけやって後は好き勝手な振る舞いをしていて本当にいいと思っているのだろうか。いやもしかしたらそれでも救われたり守られたりはするのかもしれないが、少なくとも都合のいいエンターテイメント的な部分だけを消費し、なお救いを求めて祈るのはあまり筋の通ったことではない。それでいてなお他者に正しさを説けるのはなかなかにすごい(ちなみに振る舞いがわからない俺はそんなところで老人に言い返す立場にはない。俺は20代をほぼ音楽と大学に費やしたのでこういう部分の教養が根本的に欠如している)。

まあ天の上の偉い人たちから見たら、間違ったやり方でお供えをする俺もゴミをポイ捨てするその老人も大差ないクズ人間でしかなく、等しく救いの対象なのだと言われればそれもわからんでもない。だが人はいつだって自分の価値観に基づいて他者を値踏みし義憤を燃やす。だからこそ彼は俺を見下し、そして俺は彼を見下す。この世は地獄なのだ。