抑圧の奥に潜む怪物を垣間見るとき

横断歩道で信号待ちしてたら泥酔したおっさんに「俺ァ来月で40だけどよォ!40からの10年間は20代もっかいやるぐらいのつもりでおんのよ!」と語られた。おっさんに絡まれるのは日常茶飯事だが、こんなヴァイブス激アゲおじさんには未だかつて会ったことがない。さすがにちょっと見習おうとすら思った。平日17時の星ヶ丘の路上で泥酔しているというただ一点を除いて。

明らかに変な髪型をしていることもあり、最近は通りすがりの人に笑われたり怖がられたりすることがよくある。だがそれはあくまで俺が選んでやっていることなので今回はどうでもいい(まあ他人の自由意志の結果ならそれがおかしくて笑われても仕方がないのかというのはまた別に議論すべき重大な問いなのだが)。

それとは別に、僕には常々思っていることがある。

僕のこの格好は、ほとんど何の抑圧も受けていない自然な状態であり、言い換えると、僕にとっての好き勝手な「一番変な状態」が今だということになる。変な見た目で変なブログを15年も続け、変なゼミと変な音楽をやっているのが僕の全てなのだ。つまり、僕の”変さ”にこれ以上はない(まあゼミ生には「夏休みだけ髪編み込んだらやばいかな??」などの当たり前のことをほざいて呆れられている時もあるが)。

同様に、仲のいい同級生で会社をいくつも並行して走らせている友人は、社員の生活を守るためにもとビジネスには本気だが(普段ふざけ続けている彼でも、ふと見せる本気の表情の瞬間に「社員を路頭に迷わせるわけにはいかない」などと言うことがある)、そんな彼も日常の事務仕事では「暑い」というただそれだけの理由で上半身裸で働いている時がある。セクシャルハラスメントとは一体何だったのかという感じな上に単純に馬鹿すぎるが、彼からみたら僕の髪型が馬鹿すぎることは疑いようもない。

一方で、自分の服装その他を(たとえば職務規定のような)”規定”により日常的に抑圧されている人たちはどうだろうか。清潔感のある短髪に綺麗なスーツと磨かれた革靴で、人間的にはかなりまともに見える。いかにもビジネス現場で活躍していそうだし、優しくて良い人っぽい感じもする。

しかし、僕はそこにこそ何か得体の知れないおぞましさみたいなものがあるような気がしてならない。正直なところ、その表面上の清潔感が多かれ少なかれ中身のグロテスクさを押さえ込み、綺麗に覆い隠していることは否定できないと思う。もちろん、それがまさに”規定”による抑圧の役割なのだと言われたらそれまでだが、何かの拍子にそれが剥がれたとき、中から出てくるものの恐ろしさの程度を外面から予測することはできない。僕はそこに、なにかとんでもなく恐ろしいものが封じ込められている壺のような、そういうおぞましさを感じてならない。

そこには、入ってみたいけど磨りガラスになっていて決して中の様子の見えない喫茶店なんかと同じ種類の”未知”が滲み出ている。俺はそれがとにかくこわい。何しろ中身が見えないのだから。ゼミ生が言っていた、「爽やかな見た目のやつに限って実はやばい」みたいな発言にも通ずるところがある。やはりこいつらは大丈夫だ。大丈夫じゃないのはいつだって俺なのだ。