過去の世界に生きる人たち

時間に関する議論においては、しばしば時間を過去・現在・未来に分割して語ることが多い。しかしながら、ぼくらが——少なくともぼく自身が——日常的に知覚している”現在”とは、実のところ常に過去であり、「真の現在とは実は未来である」ということについて(もちろん陳腐な議論ではあるのだけれど、改めて自分の言葉で)書いておきたい。

ぼくらが思う“現在”において、身体の内外では常にさまざまな事象が発生している。その中でも、対外的な事象について考えると、ぼくらは”いま”まさに自分たちのカラダの外側でいったい何が起きているのかを理解すべく、視覚、聴覚その他の各種センシング技術を活用する。そして外界から届く信号を収集、解析することでそれらの把握を試みる。

しかしながら(これはかなり当たり前すぎることだが)、ある信号を受容し、それが脳に伝達され、理解するころには、その信号はすでに過去の遺物である。音が耳に届く頃にはその音を発した瞬間の事象は終了している。つまり、その時間的距離がどれほど瑣末なものであろうと、我々はセンシングに頼る限りは常に「過去である事象」に関する情報しか得ることができない。それはさながら、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡で130億光年離れた地点から発せられた光(それは言い換えれば、おぼろげながら見える130億年前の世界の景色である)を観測するがごとく。それと目の前の事象を観測することにいったいどれほどの違いがあるというのだろうか。我々は”現在”と名づけた過去をみている。

必然的に、それが真の現在まで連続しているという保証はどこにもない。つまりぼくらは真の現在について(純粋には)常に無情報であるはずであり、逆にそれを無情報でないと思えるのは”現在”までに得られている情報をもとに推論しているからに他ならない。純粋には常に無情報であるはずの”現在”に対して、過去の蓄積からの(かなり脆い推論のみに基づいて)信じている。ぼくは”今”のこの瞬間も同じように喫茶店で珈琲を飲み続けられるという信条のもとに行動している。

そしてそれは真の現在から「1コマ次の瞬間」としての未来に関しても全く同様である。そこには、無情報であることは全く同様として、推論による連続性の前提が経時的に曖昧になっていくという差しかない。それはさながら台風の予想進路の円が将来に進むにつれてだんだん大きくなっていくようなもので(それはあくまでイメージとして書いているだけで、おそらくあれは信頼区間なので厳密には別物だが)、これはつまり、我々の知覚する”現在”ではない真の現在とは、実のところ未来と大差ないことを意味している。無情報であるという観点のみでいえば現在とその一瞬先の未来などほとんど同義であって、「過去~現在、そして未来」という区切りではなく、「過去、そして現在~未来」という区切りが正しいのではないか。我々の思う”現在”とはそもそもが過去であり、真の現在は「過去になるまで未定である」という意味で、現在とは未来であると思う。

そうなると、あくまで”現在”しか知覚できないぼくらにとって真の現在とは思考のみにおいて与えられており、つまるところぼくらは過去の世界のなかで生きていることになる。いま、ぼくはまだ珈琲を飲んでいるだろうか?