雑記

天国へ繋がる道と地獄の書評

少し汗ばむ青空も、まだ肌寒い夕焼けも、薄暗い喫茶店で飲む珈琲も、公園で遊ぶ子供たちも、身を寄せ合ってバスを待つ男女も、図書館で静かに本を選ぶ人も、誰もいない夜の交差点で点滅する信号も、河原で酒を飲む若者たちも、何もかも全てがエモく見える病にかかった。もう終わりだ。

残された時間が非常に少ないので一旦好きなことをして過ごす。

2週間後無事に帰ってきて「あの時怠けてたせいで仕事が山ほど溜まってる…」とうんざりすればいい。それはある種の幸せなのだ。やり残しを作っておかないと、性格上ついつい面倒臭がって帰ってこないかもしれない。

10年前は夏バテだと思ってふらっと病院に行ってそのまま病院から1年近く出てこられず二十歳をまるごと潰すことになった。今回は期間こそ短いものの、集中治療室から3日間は出られない。それで2週間で退院して仕事に戻ろうとしているんだから本当に馬鹿だ。

今回の手術で死亡する確率は8%とされた。これが意味するところをそれなりに理解できるという意味で、統計学をやっていて本当によかったと思う。ガチャを回してSSRが出るかどうかなど実はどうだっていい。スマホゲームはどうぶつの森をやめた時点で何も続かないことがわかった。経験的確率から考えればワクチンの副作用よりワクチンを打つ行き帰りの交通事故の方が危ないとか、確率から言えることは思ったより多い。ちなみにこれを成功確率92%とポジティブに書かないのは、手術というものが成功/死亡の二律背反ではないからだ。死なない”だけ”なんていうことはザラにある。

欲を言うと、本当は入院前に仲間たちを全員病院送りにするような飲み会がしたかった。堀江さんの収監前みたいなパーティがしたかった。俺がなんとなく酒を飲まなくなったのをいいことに好き勝手言う仲間たちを全員潰して土下座させたかった。お医者さんには殴られる寸前ぐらいの勢いで怒られるだろうけど。でもそれでいい。人生は実はそんなに真面目にやらなくてもいいし、時に刹那的な悦びを追求してもいい。それで何かあった時に自分を責めることができるかどうかだ。

時間がないのでいくつかのやりたいことを済ませた。

アルバムを作った

時間がなくて作りかけの曲ばっかになっちゃったけど、CD-Rにまとめてミニアルバムを作った。一部の人に託したので俺が帰ってこなかったら探して聴いてください。

公園で読書をした

植田の駅前の公園で平日の昼下がりに読書をした。大学院生時代、日常的にこういうことをしていた結果としてローカルの不審者情報に載ってしまった。やはり世の中の親御さんを不安にさせるのは申し訳ないので、それ以降大学の外ではやらないようにしていた。

300円のほぼ雑巾みたいなTシャツに1000円のペラペラのスキニー、とっくに履き潰して靴ヒモがねずみ色になったコンバースを履き、飲むのが遅すぎてすっかり酸味の強くなってしまったコンビニの100円のコーヒーを片手に、好きな音楽を聴きながら雲ひとつない空の下、公園で本を読んだ。

これは本当に死ぬ直前なのかもと思うぐらい良い時間だった。唯一気に入らなかったのは肝心の本の内容だったが。

今これは植田のダウニーで書いているわけだが、17時半時点で客は俺しかいない。襟がだるんだるんになった300円のTシャツでおしゃれカフェに居座るのはなかなかに申し訳ないものがあるのでもう帰ろうと思う。数年前まですぐ近くに住んでいたのでよく来ていたが、いつのまにか水がセルフになり、普通の水とレモン水が選べるようになっていた。レモン水というものを美味しいと思ったことはこの人生で一度もなく、アメリカにいた頃、あの国で5番目に大きな企業の本社で客向けに出されたレモン水ですら不味かった。そんなにいいものですら飲めないんだから俺の口には本当に合わないんだと思う。でも今日はレモン水を飲んだ。まだまずかった。

で、本を読んだ。『つながり過ぎた世界の先に (PHP新書)』Amazonの現代思想カテゴリで1位だったのでとりあえず買った。入院中に読もうと思っていたのに我慢できなかった。

これはMarkus Gabrielへのインタビューを本にまとめた形であり、そもそも「書く」という表現自体が間違いかもしれないが、本全体にわたってどうしても哲学者としての自身の専門性に基づく提言と本人の主観を分離せずに書いている感じが否めない。さっきまで馬鹿みたいなことを馬鹿みたいな文体で書いていた俺が言うべきことでもないが、つまるところ全体的に表現の精緻さに欠ける。

たとえばニューヨークがスーパースプレッダー都市であったかどうか、そしてその原因がアメリカの食文化にあったかどうか、それは彼が断定すべきことではない。はっきり言ってしまえば、彼自身の経験と感染の実態がたまたま一致したからそう言えるだけに過ぎない。残念ながらこの本にはこういう主張がいたるところに出てくる。もしかすると彼自身が著作として時間をかけて執筆していればこういうことはなかったのかもしれないが、その場である程度完結させる必要のあるインタビュー(しかも翻訳)というものは熟考しづらい上に出典も出しづらい。

第III章は、あの時点では単純に他者とのつながりとして日本以外の国のコミュニケーションを紹介する章だった。文化としての社交性の高さを表現するのに、非専門家が出典もなしに未だろくに明らかになっていないコロナウイルスの感染メカニズムと連関させる必要はあったのだろうか。

これはディベートの一端だという意見もある。しかし、その直前でまさに彼自身がディベートの作法として述べていたとおり、ディベートにはそのための時間・空間を充てがうべきであり、それらを準備しないまま一方的に書籍で公開された”意見”に後から議論を投げかけるのはあまりに労力がかかる。文章としてやりとりする議論を望ましい形だとしているが、この件ではもはや議論というよりファクトチェックになってしまうのではないかと思う。これは決して「専門家以外は何も語るな」ということを意味しているわけではない。しかし、自身の経験に基づいて意見を表明することと、自身の著書の中で専門家のように断定することとは全く異なるのだということには留意しておかなければならない。

最近聴いている曲

10years vintage – SPiCYSOL 同僚の先生に勧めても全然ハマってくれないけどSPiCYSOLはとてもよい。