人生と投資:非合理的経済人のススメ

利上げとか侵略とかいろんな要因があってちょっと特殊な状況ではあるものの、その少し前あたりから急に始まった投資ブームで多くの人が突然FIRE (Financial Independence, Retire Early)とか言い出した。危険な話だと思う。俺より上の世代の人間は、80年代にフリーターこそこれからの新しくてかっこいい生き方だと喧伝されていた時代があったことを思い出すといい。俺は未だ完全なる若者なのでそんな時代は知らないが。

多くの場合に、たくさんの人が急に憧れて騒ぎ出す方向に向かうのはかなり危うい。これは逆張り乙とかいう話ではなく、ある現象が社会のマジョリティに捕捉され急速に参入者が増えたときのバブル的な動きはどこに向かうかわからない無鉄砲さを孕んでいるということだ。

投資は生活の余剰資金でやるべきなんていうのは当たり前の話だが、個人的にはそれよりもう少し制約を課すべきだと思っている。簡単にいうと、遊ぶ金まで削りまくって投資に回す生き方なんていうのは絶対にやめたほうがいい。「将来絶対にFIREを実現したい!」と若いうちから趣味をやめ外食を控え…とあらゆる支出を切り詰めていくことは、長期的にみると結局は将来のために若さを切り売りしているのと同じだということに我々はもっと自覚的にならなければいけない。お金より若さ(あるいは時間)の方が大事なのだということに気づけないと取り返しのつかないことに(きっと)なる。

一般的には、将来価値の大きさを知覚して目の前の快楽を我慢することには経済学的な合理性があるとされる。しかしながら、若い時間のインプットを過度に削りまくった先に安定が得られたとしても、もうその時にやりたいことなどないかもしれない。お金が余れば全て投資しなければという強迫観念に怯える日々かもしれない。いま自分が思い描く「あれが欲しい」「これをしたい」「あそこに行ってみたい」「それを食べてみたい」は、もしかすると今の自分自身の本質的な性質ではなく、単に若さやそれに由来する認知資源の豊富さ、あるいは若さ故の愚かさがそうさせるに過ぎないかもしれないのだ。

(吐いた言葉をもう一度並べるなら「だが勘違いしてはいけないのは、若さとは生存とともに逓減する属性に過ぎず、それ自体は自分ではないというところだ。もちろんその若さを一生失わないという自信があれば別だが、若さとは誕生とともに付与されるある種のログインボーナスに過ぎず、貯蓄することもできない。若さ自体を自分自身だと定義してしまうと、通常それが失われる頃には自己の同一性が保てなくなる」 『疑いようもなく完全であるという過信』)。

“Financially Independentである”とはある意味で(ある意味に過ぎないが)目指す先は安定である。つまり、投資というリスクテイキングな行為をしている割には、長い目でみると強い安定志向にあることを意味する。FIREを実現した先にあるのは(別にそれが悪いと言っているわけではないが)何にも興味が持てないまま毎日YouTubeを眺めるだけの生活かもしれない。僕は投資も音楽やITと同じ趣味に過ぎないので、適当にそれらで遊びつつ仕事は絶対にやり続けると思う。ただ、その最大の強みは、ある職場に居続けなければいけないという強迫観念がかなり薄れることに他ならない。適度な負荷はかけつつも、万が一やめることになっても収入はあるしな〜ぐらいで働けるのがベストだと思う。