10億秒の末に見る眼前の仮想と遠くの現実

31歳になりました。まだ生きているのが不思議に思えるくらいとんでもない1年だった。

1 million = 100万秒はおよそ11日間だが、1 billion = 10億秒はおよそ31年間で達成できる。別にだから何というわけでもないけど、31年間生きるということは10億秒生きたことになる。

突然大動脈瘤の診断を受けた昨年4月から、大動脈を人工血管に置き換え、ベッドの上で身体中から血まみれのチューブが出ていたところからリハビリを続けて今に至る。そこからは論文投稿、准教授への昇任審査の通過、度重なる査読依頼、日本マルファン協会での社会活動、定期試験に入試業務などなど、目の前の日々にひたすら追われているうちに、気がついたら2月になっていた。

一方で世界に目を向けると、ロシアがウクライナに侵攻し始めた。とんでもないことだ。僕らは戦争の始まる歴史的なその瞬間を目の当たりにしている。軍事力、資源、エネルギー、地政学的要因などの様々な条件が暗黙的に持ち出された駆け引きが行われている。

僕は自分に関しては病や死を幼い頃から意識せざるを得ない環境にいたからかそれらに向き合うことにはあまり苦しみを感じないが、こと他人の死に関しては本当に息が詰まって苦しくなってしまう。スネーク島の守備にあたっていたウクライナの兵士全員が戦死した記事を読んだあたりから、俺はしばらくダメになることがわかった。

これは3.11で初めて感じたことだが、災害にせよ戦争にせよ、有事の際に当事者から外れている人間にとって本当に苦しいのは、それら有事の断片的なカケラが常に入ってくる状況にありながらも、あくまで普通に目の前の今日を生きなければいけないというところにある。彼ら彼女らが日常を取り戻したそのときに迎え入れられる体勢を整えておくためにも、まるで何事もなかったかのように社会を回さなければならない。これは今この瞬間にもどこかで誰かが苦しんでいるのがわかっているからこそより一層つらい。有事に僕らにできることなどそう多くはないのだ。

生まれてから10億秒を経て、その中では大学院を出てデータ分析を身につけ、心臓を部品に取り替えてでも生き抜いて、地球の裏側で空爆で人が亡くなっているその時に、辿り着いた先が仮想通貨のデイトレードなのだとしたら、本当に”あの時”死んでいた方がよかったのだとすら思ってしまう。そんなふうになにか人間としての大切なものを失ってしまう前に、僕らは自分のやるべきことをやらなければならない。