僕らはいつか人間性に呑まれて

久しぶりにAI関係の思考実験です。

かわいいAIの話

人間はかなり共感しやすいようにできている。もちろんこれは一般論(平均的な傾向)なので共感しない人がいることは否定していない。

USENが提供している配膳ロボット―ガストやサイゼリヤで走り回っている猫型のロボットといえばピンと来る人もいるかもしれない―を思い出してほしい。

https://usen.com/service/robot/

僕らは(言い方は悪いが)あんなに、あんなにしょうもない存在相手にすら可愛いと感じるようにできている。これは『Detroit: Become Human』みたいなAIとか以前の議論で、はっきりいえば信じられないぐらい解像度の低い画面に映し出される『たまごっち』でも同じことだ。

僕らは「かわいい」の量産方法を知ってしまった。知ってしまった以上、いま僕らが人間性や人間らしさだと思っている最後の砦ともいえたはずのものがどこかのタイミングで溢れ出し、巷に氾濫する。それはさながら、画像の加工で「綺麗な顔」がインターネット上に氾濫したのと全く同じように。英語でいえば “cuteness overload” である。

AIと感情の話

この話題になると必ず勧める映画がある。2014年の映画『エクス・マキナ』だ。映画のレビューには微塵も読む価値がないので映画だけ観てほしい。Amazon Prime VideoかU-NEXTで配信しているのと、実は研究室にも常備してある。

あれを観るとわかる。感情とは、第一には他者をコントロールするための手段なのだ。今回はとりあえず共感(映画を見て泣くとか、友達に彼女ができたのを一緒に喜ぶとか)は少し置いておくとすれば、生き物だろうがAIだろうがそこに感情があるかどうかは実は問題ではない。そこに十分な思考力さえ備えられていれば、ある行動/表情/振る舞いが相手のどういった反応/行動を誘発させるかは(ある程度は)予測可能だし、あとはそれを十分に表現する能力さえあれば、我々は本当に簡単にコントロールされるだろう。それも自分の意志で喜んで騙されにいくだろう。

俺は馬鹿みたいな頻度でガストに通う人間だが、あの猫型の配膳ロボットを初めて見て、そしてかわいいと思った。今回は人間が意図して作りあげたかわいさが機械に搭載されただけだが、これをAIが自発的に行ったとなれば、それは人間の敗北に他ならない。

そう考えると、正直なところ人間がAIに殺戮される未来より、人間がとんでもなくひどい労働条件にもかかわらず喜んで働いて「かわいいアンドロイドの家族」を養っている未来の方が起きやすいのではないかという気がする。

AIと労働の話

そんなに簡単に機械をかわいいと感じてしまう僕らがアンドロイドを酷使できる日など来るはずがない。一瞬で人権問題が立ち上がってアンドロイドの労働条件が設定される。自分の可愛い子供を過酷な労働に放り込むのが嫌なのと同じだ。そして”かわいいAI”を心の支えに我々が酷使される。それがAI時代のディストピアであり幸せな人生のユートピアなのだ。実態は今と何も変わらない。

全ては機械に人間らしさを与えたとき、どこまでの基礎的な欲求が生まれるのかによる。たとえば自己保存などの欲求まで働くようであれば、当然過度な労働は避けることを目標に行動するだろう。

我々が救われる道はAIをかわいくしないこと、唯一それだけなのだ。