2つの赦し: 映画”Dogville”から

映画『ドッグヴィル』Dogvilleを観た。勧められてから2年ぐらい放置していたような気がする。すみません。まだこれから英語字幕でもう一回観たいのだが、現状で書ききれないほどメモが溜まっているので、とにかく一周目の感想を書き残しておく。

1. はじめに

人間は、誰しも自身の置かれた環境に由来する原罪や、あるいはこれまで積み重ねてきた罪から赦されたいものである。ただ、その赦しには2つのパターンがあるように思う。ある者は、自身の行いは置かれた環境や状況がそうさせるものに過ぎず、あくまでも自分の責任によるものではないことを主張し、自己を正当化する形で行為への許しを乞う。この物語において、村人たちはたびたび「仕方ない」「本当はやりたくない」といった言葉を並べながら人としての醜さを露わにする。いわゆる自己の正当化というのは、往々にして自身の行為に対する赦しの要求であり、責任の転嫁である。

またある者は、受難、つまりは課された苦難を経験し、それを罪に対する罰とみなすことにより許しを乞う。この物語においてグレースは、無知で恵まれない、主観的で感情的な村人たちが”仕方なく”繰り出す暴虐の限りを受けてもなお、彼女は彼ら彼女らを無条件で赦そうとする。なおかつ彼ら彼女らを一貫して「可哀想」と形容する。グレースはギャングとしての金や権力という明確な悪によって恵まれた環境が与えられてきたというその原罪を抱え、その振る舞いには、恵まれない人たちからこれほどまでに苦しみを与えられたのだからもう赦されてもいいだろうという意識が滲んでいるように思う。これは一般的にいえば罪と罰、そして僕の言い方でいうなら赦しによる赦しとでも呼べるものである。自身が受ける他者からの罪を許しているからこそ、自身の犯した罪も許されるべきであるという意味での二重の赦しの構造がある。そうでなければ、ギャングの家庭を抜け出して、あの過酷な労働に——それは実のところ奴隷だが、であればなおさら——従事する理由がない。

この映画において壁がないことは(演劇的な面白さ、あるいは世界を僕ら自身の想像の中で補完しなければならないことなどの面白さはもちろんあるが、それ以上に)僕らが神の如くこの村全体を俯瞰するための術として機能している。世界では今この瞬間にも異常な事態が発生しているが、僕らはそれを見ないよう壁を作り、自身で構築した快適なパーソナル空間に閉じこもる。それにより、世界から絶えず生成される無限の情報を限定し、広大な世界を完結させる。そうでないと僕らの世界への認識は維持できない。呪術廻戦でいうところの「無量空処」、千葉雅也でいえば「意味がない無意味」に近い。

最終的に彼女は他者を赦すのをやめ、同時に自身の赦しを乞うこともやめる。それは原罪にその身を浸かり、自身の受難に対する返報 (payback) を要求することを意味する。

2. 各章からその意味を見出す

はっきりいって、この映画はネットあるいはYouTuberなどが紹介しているほどの「胸糞映画」ではない。最低か最高かと聞かれたらそれは最高と答えざるを得ない。物語がハッピーエンドであるかどうかと映画としての完成度はいつだって別物として考えなければならないし、僕にとっては精神を破壊しにくる新奇性や衝撃こそが映画としての評価の高さである(なおかつ、この映画は部分的にもハッピーエンドである)。

まず第一章、グレースがトムから受け取ったパンを食べ始めた時点で、その食べ方の下品さに強い違和感があり、思わず「もしかしてグレースは育ちが悪いのではないか」とメモをした。ゴッドファーザーではパスタを食べるのにスプーンとフォークを使う様子が描かれているが、それと同様に、まともな教養教育を受けてこなかったことを象徴しているものなのではないかと感じた。

第二章では、グレースに働いてもらうため、村人たちは本来必要でない仕事をわざわざ作り上げ続ける。ただでさえ貧しい村で、不要な仕事をやらせるためよそ者に気を使い続ける。これは、グレースがいつまでも部外者であり続けなければいけないという意味で(はじめに村人が嫌な態度を取っていたことなどと比べても)よっぽどきつい。もしこの時点でグレースが本当に村にとって役に立つ存在になっていたらこれ以降の話は全く違うものになっていたのかもしれない。また、村に匿うこととは全く別個の問題として、この時点でグレースの労働に対して相応の額の賃金が支払われていればおそらく問題は悪化しなかった。残念ながら、村人たちの「我々は貧乏」という正当化、あるいはグレースの「この村の環境は劣悪」という見下し——それはこの村での表面上の許し許される関係性とは真逆の、あくまでも村人が赦され、グレースが赦す関係性であることに注意してほしい——により、それが実現することはなかったわけだが。よってグレースはいつまで経っても、どれだけ低賃金で過酷な労働に従事しても、村人に借りを作っている状態から永遠に抜け出せない。どれだけ貢献しても貸しが解消しないことから今後村人の不満が募るばかりとなることはすでに想像に難くなかった。ここでは常に逆説的に、グレースが赦すからこそ、村人が赦されるからこそ、この関係が続き、つまりグレース自身の罪のみが一向に赦されないままに話が進んでいく。

グレースの仕事が必要ないものである場合、ただでさえ貧乏な村の経済のパイをほとんど無価値の人間に分け与えることになる。それでも一度は余所者と村人の間に奇跡的な均衡状態が訪れた。しかしながら、これが第三章になると、あくまでも村の厚意で仕事を作ってもらいそれをこなしていたに過ぎなかったにも関わらず、グレースがその仕事にみるみる飽き始める。つまり、束の間の均衡はすでに崩れ始めたのである。

おそらく、村八分が何よりも恐れられるのは世界中どこのムラでも同じなんだろうと思う。というのも、グレースが町を出るかどうかの瀬戸際、彼女は自分の荷物の中からさまざまな贈り物を見つけ出す。これは一見すると去り行く者に向けた餞という美談のようにも思えるが、その実、村人たちは彼女に自分だけは味方であるとこっそり表明しておきながら、全体の場では決して他の村人への説得に参加しないような、何かそういう圧倒的な無責任感や村としての同調圧力がこのシーンからは滲み出ているようにしか見えないのだ。それに気づきもせず、グレースは村人の厚意に頬を緩ませる(はっきりいうと、グレースのそういうところに対しての「騙されているのはお前の方だ」なのだろう)。前の時点で「人間などどこでも変わらず、所詮は獣のように貪欲である」と警告されていたとおり、鐘の回数とは無関係に人々が伝道所に集まっている間に村を出るべきだった。映画的に考えてしまえば、ここで鐘が15回鳴らないはずはない。

第四章、あまりいうべきことはない。ただ、警察が来た時の異様さは空気作りとして素晴らしかった。

そして第五章の時点で、グレースは相変わらず各家に手伝いに行っているものの、一方で村人たちにはあいも変わらず相互の助力関係みたいなものが微塵も感じられず、グレース登場以前の冷め切った”本来の村”の姿が垣間見える。そして、この辺りで無意識的にも本格的な奴隷製造装置としてのムラが機能し始める。それでもなお、(もちろんこの環境に満足しているかどうかは定かではないが)少なくとも仕事を継続できるというのは、それ以前の時点でグレース自身がなにかよほど異常な環境に身を置いていたとしか考えられなくなる。特に、グレースがあらゆる労働や他者の態度に対してひたすらに”いい人間”であろうとする態度は、彼女自身が何か強烈な大罪——それは強盗とかいうレベルのものではない——に関する赦しを求めているが故のものであるように感じた。同時に、グレースが過酷な環境で生きる村人たちの悪行を「仕方がない」「可哀想」と表現する態度からは、彼女がそのようにもがく人々を内心では見下しているのではないかという思いが徐々に浮かび始めた。

先にも「匿うことと働くことは別個に考えるべきだった」と書いた通り、存在を許容するために代償を求める生活は異常で、常に代償を払い続けてもなお人々は満足しないどころか、貸しが解消しないことによりどんどん不満は悪化していく。これはこの物語に限らずかなり普遍的な動物的態度であるように思う。僕は以前から、いかに資格のない他者に対してもそこに存在するための平等な権利を認めるべきだと考えているが、それは人というものが無抵抗な他者に対してはどこまででも残酷になれるからである。それも、残酷になっていくのと並行してなぜかより不満も募らせていく。これはサービスを無料で提供すると客がどんどん傲慢になっていく様子に似ている。相応の対価を支払うべきであるという考えはここから来ている。

人々がみるみる態度を豹変させていくのはごく自然なことで、そういう意味でもやはり最高といわざるを得ない。少なくとも、都会人が憧れるのんびりした田舎からは程遠い、いわゆる(ぼくはXくらいでしか見聞きしたことはないが)”田舎の風景”って感じ。

そして第六章では、名言「君はこの街には美しすぎる」が伝わらなかった時点でもう全てが手遅れになるのを感じた。それはここから始まる地獄のうちのごく表層的な部分としての美しさ(この映画はネットではわかりやすい表層の”行為”ばかりが取り沙汰され、それだけをもって「地獄」「胸糞悪い」などと形容される。もちろん、”行為”の過程において、ぼくは男性として加害側に立たなければいけないことに激しい苦痛があったが)なんて話ではなくて、つまるところ彼女は村にとって永遠に異物であり、そこに同化することは不可能だということの宣告に他ならなかった。ジョンソンがいかれたクソガキすぎるとかそんなのは瑣末なことで、実際には全ての村人が正しくいかれている。そう、結果としてチャックでさえも彼女を”守った”のである。こんな残酷なナレーションがあっていいものだろうかと思う。

第七章、本当に頼むからこの章だけは飛ばさせてほしいと懇願した。こんなに考えているのに俺はまだ赦されないのだろうかと思ったし、これがDVDを2年間借りパクしたことへの罰なのだろうとも思った。まあ全部観たが。

人々は、「本当はこんなことしたくはないんだよ」と口々に述べる。おそらくそれは100%心の底からの本心なんだろうと思う。しかし、ムラという閉鎖された世界に身を置き続けた結果、彼ら彼女らは正しい課題解決の方法の一切を見失ってしまい、自身の歪んだ主観(私は医者である)と間違った信条(2週間あれば他者の善悪を判断可能である)のみに頼って他者を断罪する——より正しくは、断罪できると信じて疑わない——狂いきった妖怪となってしまっていた。トムが父親から借りたはずの10ドルが実際には盗難したものであったこと、さらにはその犯人はグレースであるという嘘の供述をしたことなどの真実はグレースに対してのみ語られることだが、そこでトムが披露する言い訳(もし自分が犯人として拘束されるとグレースを助けられなくなるから)を含め、彼も立派な怪異、ただの成り果てであったことは疑うべくもない。

そして第八章、相変わらずトムは”ゴミの振る舞い”を続けるが(この期に及んでの「誠意が試される」はかなり謎であった)、もはや成り果てであることは所与の条件として問題に取り組むべきであり、どうだっていいことだ。僕の不満はどちらかというと、グレースがこの期に及んでトムを信じ続けていることに移っていた。まあそれが愛というものなのかもしれないし、あるいはグレースはもはや正常な思考などとうに失ってしまっていたのかもしれない。ナレーションも言った。彼女を支えていたのはプライドではなかった。命を脅かされた動物が陥るある種のトランス状態。最悪の状態ながら肉体が機械的に反応し、痛みの感覚がなくなるのだ。無抵抗なまま病気に支配される患者のように。これは村全体から受ける行為に対する言及だけど、それはつまりこの村においてトムだけが異質な常識人であるということは(先にも述べたとおり)まず考えにくいのであって、つまりはその説明はトムの行動に対しても適用されている挙動だったのだろうと思う。確かにこのあたりで、ついにグレースから「よく考えているわ」という最大限の皮肉の言葉がトムへ向けられる。

映画としては、この章で「誠意」としてのグレースの演説が映されなかったのは残念だった。彼らのいう「憎しみや不幸を撒き散らしたから追い出すべき」存在としてのグレースからの言葉を僕自身も受け取りたかった。それこそが本当に突き刺さるものだっただろうに。

そして伝道所での人々の反応に対してトムは「あまりに心が狭い」と返すが、彼らのやっていることは——自覚的ではなかったにせよ、明らかに——村ぐるみでの犯罪行為であって、心が狭いとかの問題ではない(指名手配犯を警察に突き出すべきであるという村人たちの遵法意識でそもそもの動乱が始まったはずだったというのに、だ)。それはトムの問題把握能力の欠如を示している。だが多くの場合に、こういった閉鎖空間における異常性の発達というのは、後から振り返れば到底ありうるはずもないようなプロセスを経ていることが多い。誰もが警察やギャングを脅しの道具にしてグレースを都合よく利用しながら、それでもグレースを憎んでいる。ここは完全に異常空間なのだ。(いまちょうどいい例が思いつかないから仕方なく出すけど、)さながら日本が戦争に邁進していった様子が思い起こされるようだった。愛するものがあそこまでなってるにもかかわらず街の良心を信じ続けるトムの八方美人感は、物語としては最低ながら、映画としては最高といわざるを得ない。わかりきっていることをまた繰り返すと、この異常空間で他の村人と同じように生育していながら、トムだけが正義の善人であるなんてことはあろうはずもない。

そしてこの辺りで、トムにとってグレースはチェスで自身を負かす、あるいは思考能力で自身を上回る存在であることが判明したという点でトムの存在意義を脅かす存在へと変化する。それだけではなく、あれだけトムの目から自身を遠ざけたかったはずのリズまでもがグレースに嫉妬しており、それは美貌や魅力という点で(少なくとも村人たちにとっては)より優れた他者が登場したことにより自分の価値がすっかり失われてしまったことへの恨みなんだろうと思う。同様に他の村人たちにとっても、グレースの存在が各々の存在価値を毀損しつつあると感じている面もあったのかもしれない。

第九章、これの大半はもう見えきった結論を引き延ばしているだけの時間に過ぎない。車の中の会話、それこそが結末の説明であり全てである。ああなんて残酷なシーンなんだろう。その後の展開などどうだっていい。車内でグレースの首が赤くなっているところに彼女の受けた罰の重みを見ながら、繰り広げられる会話に終焉の音を聞けばいい。ここまでグレースは村人のあらゆる行いをあたかも聖人が如く赦し続けてきたが、この会話の中で彼女はついに「過酷な環境で生きる人々である以上多少の悪行は仕方がない」という村人に対する圧倒的な驕りを見せつける。そして、それは同時に、その悪行を受けながらも徹底して善人ぶり続けることにより、自身の恵まれた環境(それはギャングの活動により得られた恩恵であり、この時点で彼女はそれを歓迎していない)から彼女自身が赦されたがっていることの暗示でもあるように思う。

そしてその後の展開に進む。映画としては、最後の15分時点でニコール・キッドマン(グレースではなくニコール・キッドマン)の表情が急激に変化するのは、やはりさすがとしか言いようがない。あるいはトムが最後にグレースをわざわざ呼び出してまでさらに演説を繰り広げるのは本当に最高の一言に尽きるもので、これはもはや偽善者のムーブとして満点を超えてしまっている。密告した当の本人であるはずの彼が、なぜか彼だけは罰せられないと信じており、最後まで「本に書く」とか言っている。最高に自己中心的かつ偽善的な人物描写、120点である。

3. 原罪の行使と村の終焉

パッケージに書いてあったとおり、最終的に「村がなくなる」こと自体は事前に予想がついていたわけだが、それにしてもここまで引っ張っておいて最後にこんなわかりやすい展開をつけて終わらせるサービスは不要だったように思う。この展開により、第八章までが所詮は最後のジェットコースター的カタルシスのための積み上げに過ぎなかったことが明らかになってしまう。ここまでにも散々書いてきて、そして最後には彼女がそれを理解して振りかざしたことからもわかるとおり、最終的に彼女が村人に報復できるのは(いくらそれがギャングという絶対悪によるものだとしても)圧倒的に恵まれているからである。それこそが彼女を驕らせ、村を見下す要因となった。ボスたる父親がグレースにその傲慢さをしきりに指摘したのは、彼女が村人たちに説明責任を果たさせないまま無条件に許そうとしていたことに対する指摘であるわけだが、おそらくこの村以前にもそういうことばかりが起きていたのだろうし、それは彼女の他ならぬ驕りや見下しの意識によるものだろう。

ぼくの期待としては、たとえ村を潰すにしても、たとえば真夜中にグレースが村全体に灯油を撒いて村ごと焼身自殺して全てを終わらせるとか、あるいは常に”善”であろうとしたトムだけが最後に唯一殺され、彼は最期まで己の不公平に不満を漏らしながら死んでいくとか、なんかそういう終わり方であってほしかったんだ。それはつまり、彼女の最後の一撃は彼女の原罪によるものではなく、彼女自身の力による報復であってほしかったためだ。せめて、限界に達したグレースが自殺し、それがなんらかの形でギャングに伝わったことによって村が報復されるとかね。彼女自身が権力を行使することは避けてほしかった。結局のところ、父親の「早くお前を連れ帰ろう。多くを学びすぎたな」に集約されているが、彼女はこの経験を経て今後とんでもない傑物になるのだろうと思う。

少なくとも、グレースは(いくらひどい仕打ちを受け続けてきたとはいえそれでも)物語上では最後まで生き、その一方で暴虐の限りを尽くしたとはいえ村人たちはより残虐な方法で皆殺しにされている。その扱いの不平等があってもなお、僕らは村人が死ぬことに対して報復的な喜びを少なからず感じている。これが圧倒的によくない。村人の死に対しても僕らは平等に残酷さや胸糞悪さを感じるべきなのだが、実際にはこれが「せめてもの憂さ晴らし」としてしか機能していない。なぜだかわからないが、どうもこの映画はそのようには作られていないようだ。

ぼくのこの考え自体をトムの八方美人のような偽善だと思うかもしれないが、どちらかというとこれは、僕が死刑反対派であることによるものではないかと思う。現実にこのような異常空間は(程度の差こそあれ)世界中に点在しているわけで、こんな限界集落を一つ潰して問題を解決した気になるところに、いかにも中途半端な倫理観に染まったギャングの娘という感じがしてしまうのだった。そして、限定された閉鎖空間における異常性の発達という意味では、スタンフォード監獄実験を描いたthe ExperimentCUBEなどと同じジャンルの映画であるように思う。

4. トムという名の愚かなぼくら

最後に、この物語全体を通して、他の村人には少なからず活躍の場が与えられているにも関わらず、グレース最愛の人ことトムに限ってはひたすらにその異常な無能さや臆病さ、偽善者っぷりあるいは八方美人、あらゆる残念な姿が角度を変えながら次々多角的に浮き彫りにされ続ける。彼は一度として、具体的かつ個人的に村人に何かを訴えることはなかった(父親からの資金の融通、チャックへの直談判、ベンへの脱出の相談など枚挙にはキリがない)。あらゆる具体的な行動や主張は常にグレースを通じて発せられており、それが故にグレースは相手から裏切られ続けた。

それどころか、それまで村を率いる存在を自負していた自身の無能が暴かれるほど有能な他者としてのグレースが登場したことにより、みるみるうちにその態度を豹変させ、最後にはその存在を(なんだかすごくよくわからないそれらしい理由をつけて)抹消する方向に走る。素晴らしい。本当に1億点の偽善者であるとともに、彼は俺であり君である。これは第五章での話だが、愛の告白の後、その照れから「心理学的に面白い」と彼がナメたことを口走った瞬間、これは俺だと思った。

ただ、トムと他の村民との唯一の違い、それはトムがグレースに対して”奉仕”を求めない(それは全く求めないわけではないが、彼はいつだって最後にはその要求を取り下げてきた)人間であったということである。それは、この村で唯一トムのみがグレースに赦しを求めていないことを意味しており、だからこそ(散々疑問を呈してはきたが)グレースはトムのみを対等な人間として愛した。彼とそれ以外の集合を区切るものは、彼女自身の発言、「そうしたいならして、みんなと同じように」、その「みんなと同じように」に全て集約されていた。ただ、彼が最後には無様に赦しを求めたことにより、結局は”ただの村民”に降格してしまい、結末を迎える。そう、実は彼はあのまま自身の圧倒的偽善のみを信条にただ進み続ける愚かな偽善者でいれば良かったのだ。それでこそ彼は”井の中の哲学者”として君臨し続けられた。

そう、ぼくらの誰一人として懐深く有能なグレースではなく、一人残らず全員が無知で愚かなトムなのである。もしある日自分を導き、変化を与えてくれるかもしれない希望の他者が現れたとしても、それは自分を見下す自分以上に有能な他者である。そして自分の弱さが暴かれそうになるとその他者に牙を剥き、最後には無様に赦しを乞いながら死すのである。

そして僕らは誰も赦されず、そして誰も赦さないのだ。