極限と実在

実在を信奉しすぎてはいけない。僕は元来強い信念を持った経験主義者であったが、実際のところ実在とは経験主義の過信でしかない。

いま僕の目の前に君がいることを僕が知覚出来ているとして、それだけをもって他者の実在を確定しようとするのはあまりにも早急である。誰かが言っていたように、究極的には神が、すべての存在を知覚しているからこそこの世は成り立っているという話もある。しかし、どうせ全ての存在は神によって知覚されているんだから、と言い出すとこれは経験主義に基づいた実在の議論の意味を失ってし まう。

ここで言いたいのは、誰とっての経験が誰にとっての実在なのかという点である。それはつまり、僕が知覚できている君が他者を知覚できている、というように知覚のネットワークを構築していった時に、それら全てを僕が知覚していると言い切っていいのかという話だ。仮にそれが許されたとしたならば、僕らは前述の通り、ネットワークを通じて神と同じことができていると言ってもおかしくはない。

だが待ってほしい。そもそも経験主義とは、他ならぬ自分の経験に基づくからこそ自身の経験が全てと言えるのであり、他者の知覚を拠り所にした経験など、実はなんの役にも立たないのかも知れない。同じ対象に関する経験で他者との間に競合でもあった日には、そこにはおそろしいことがおきるのかもしれない。

まず自身の知覚があっているなどという保証もどこにだって存在しない。なぜならそれを知覚できるのは他ならぬ自分自身のみであり、そこにかけられているであろうありとあらゆるバイアスにも、おそらくそのほとんどに無自覚で居ざるをえないからだ。

これは根本的にいってひとつの実験でしかない。僕は今これを、41度の熱を出し、身体中から血まみれのチューブを何本も出しながら書いている。人々は根本的に気づいていない。経験主義とは極限状況でのみ意味合いを発する。

業務連絡:私は生きています。手術も無事に終わりました。ですが、驚くほどの発熱と合併症が出たのでもうしばらくはこのままです。