多様性と想像力の話

思いやりという名の思い込み

電車に揺られるそれぞれの人々に家庭があり、それぞれの人生を歩んでいる。講義で目の前に座る何百の若者たちそれぞれに生い立ちがあり、それぞれの嗜好や志す人生がある。

陳腐な書き出しをしたけど、人間の多様性を捉える研究とかやっていてもこの事実は意識していないとたまに忘れてしまいそうになる。電車で隣に座るおっさんを自分の人生に何の影響も及ぼさないどこにでもいるおっさんだと思ってしまうのと同様に、おっさんもまた俺のことをその辺にいくらでもいる汚い若者だと思っているだろう。もしかしたらこのおっさんは共同研究先としていつもお世話になっている大企業の重役かもしれないとか、逆に俺のことを自分の娘が通う大学のゼミの先生かもしれないとか、そんなことはお互い夢にも思わない。

先日インターネットで他者を傷つけないために、みたいな講習が(学外、お世話になっている某所で)あった。月並みな内容だ。「SNSは便利なものですが、人生を台無しにしかねない危険なものでもあります。投稿する前にもう一度その文面を振り返ってみましょう」だそうだ。

俺は本当に不思議なのだけれど、なぜそんな簡単に他者に配慮できると思えるのだろうか。この世の「あらゆる多様な他者」というものの存在を想像したことはないのだろうか。twitter上の永遠に分かり合えなさそうな他者同士の不毛な議論をはじめとしたインターネットの海溝に呑まれたことはないのだろうか。

たとえば、俺の身体的特徴を羨ましがる人というのがたまにいる。いくら食べても太らないし背が高くて頭身も高いとか、そういうところなんだろう。その人々の口調を聞くに本当に羨ましいのかもしれないが、では自分が羨ましいと思っていればそれは善意なのだから何を言ってもいいとでも思っているのだろうか。他者への完全な配慮など不可能だと知るべきだ。

「30超えてもその体型だったらすごいよ」じゃねーんだよ。病気なんだっつってんだろ。俺は好きでこの体型やってるわけじゃないの。この病気でよかったことは背が高くて他人に舐められないことだけ。他は何ひとつない。

先日書いたYouTubeの広告の話もそうだけど、他者の背景や行動の先を”想像”する以上のことはできない。多くの人はそれすらできていないわけで、それを上回る”配慮”などできるはずもない。それができるのなら根回しや利害調整にこんなに時間がかかるはずがない。

今日は大学下のローソンで朝食を買ったが、まさかカレーパンを買ったつもりがメンチカツパンだったなんて想像もできなかったので悲しみに暮れている。

最近聴いている曲
JAZEE MINOR『AUGUST 31』
Jazee Minorはかなり昔からチェックしているのだけど、相変わらず最高と言わざるを得ない。このメロディセンスと構成力は日本のヒップホップ界の至宝。