殴られないと救われない世界

僕は機械学習や進化心理学といった血も涙もない学問領域に定期的にぶん殴られる。しかしそこに求めている答えがないことにも薄々勘付いていて、統計学や哲学の本に救いを求める。そんな分野に近寄らなければ済む話だが、だとすると今度僕は統計学や哲学からも遠ざかっていく。

救いを求めるのは自分が窮地に立たされているからであって、言い換えれば殴られないと思索は行われない。つまり俺にとって機械学習や進化心理学はネタを漁るための広大な海のようなものでしかなくて、そこから突然出てきた巨人に定期的にぶん殴られると、そこで初めて防衛機制としての思索が始まる。10年ほどそれを延々と繰り返してきた。

統計学は、科学哲学の文脈に落とし込むと哲学に内包されかねない。しかしそこは分けて考えるべきだと思う。それはひとえに、統計学的手法というものが言語として扱うには明らかに不完全であるからで、統計学的手法をもって(哲学がこれまでやってきた思索のような)哲学的手法と同様に、哲学における主要な問題を解決できるとは到底思えないからだ。(だから統計することが哲学することを意味するのでは困るし、したがって統計学を哲学するのは楽しい対象を楽しい手法で扱っているという意味で本当に楽しい)

今日も僕は星ヶ丘のマクドナルドで倍ビッグマックとポテトLをコーラで流し込みながら哲学書を読んでいる。僕はこの食事を「欲望の具現化」と呼んでいるが、千葉雅也は背脂たっぷりの醤油ラーメンの発明を「時代のタガが外れた瞬間」と呼んだ

思索することと、このグロテスクな欲望をグロテスクな商品で満たすこととは両立するだろうか?思索すること自体が何か特別に高貴なことなわけでもないし、あるいは僕は実学という言葉が極めて嫌いなのでそこを連関させる必要は必ずしもないのだけれど。

大学まではヒップホップにしか興味のない耳と脳だけついていればいい人間だったが、あの頃もヒップホップというほぼ宗教みたいなカルチャーについてひたすら思索しながらブログを書いていた。あの頃から本当に何も変わっていない。