文明と多様性と死

文明と多様性と死

現代社会は死が身近なものではなくなりすぎているという話は時々ある。それはあたかも人類が全てをコントロール下に置いているかのような錯覚をもたらすが、現実には災害や疫病などコントロールできているものこそごく少数なのだ。災害に対しては技術力の向上で対策ができるようになったに過ぎず、それですらも確率的に人が死ぬ。コロナみたいな新しい脅威が出てきた時に、どうにかして根絶しなければいけないように思っている人が散見されるが、コントロール下にないものとはうまく付き合っていくほかに道はない。

そう、人は本来まあまあ死ぬ。それはひとえに、動物というものが本来的に数を打って種の中に多様性を形成し、そこから現地適合できたもののみを残す形の戦略をとっているからで、これは本当に残酷なことだ。当たり前のことではあるが、我々の身体に出る生来的な”実験結果”には多少の不平等の是正こそあれ誰も責任は負ってくれない。

仕組みがこうなっている以上、我々の生きる社会は最初から多様なのだが、どうもそれが理解されていない気がする。

近年世の中では正しさで他人を殴りつけることがはやりにはやっているが、誠に残念ながら正しさを振りかざすだけでは多様性社会は進展しない。真に多様な社会には、多様性を許容できない人間までもを許容するという根本的な矛盾が内包されている。それらの構造的な矛盾すらも許容される社会システムの構築というのはそう簡単なものではない。

たとえば俺の姿勢が悪いのはもうどうしようもない。これは誰になんと言われようと直すことはできないし直すつもりもない。筋トレぐらいはしてるけど、それはその姿勢でも身体が辛いのを少しでも緩和したいがためであって、他人のお気持ちのための対策ではない。長身痩躯のこの病において背骨を長時間まっすぐ支えるのはあまりに負担が大きく、長期的にみるとむしろ身体を傷める可能性すらある。

経験上の話として(これは障碍でも妊娠でも全て同じなのだが)、こういう時に「病人は病人らしく振る舞え」みたいなことを言う奴には絶対に従わなくていい。他人の気分を良くするために自分の体を壊しても誰も責任は取ってくれないということを忘れてはいけない。仮に俺が首から「わたしは病の関係でどうしても姿勢が悪くなってしまいます。申し訳ございません。」という札をかけてしおらしく座っていたとしても、あの老人は変わらず俺に文句を言ってきただろう。

社会の標準化を進めたのは産業革命と大量生産だと思うのだが、まあSociety 5.0とか標榜している以上はそろそろ順次なんとかしていきたいもんだ(人類はまずFAXを窓から投げ捨てるところからだが)。