コロナ

Big City of Vaccines

東京

名古屋のワクチン接種があまりにも先行き不透明で困っていたところ(しかも僕は市から基礎疾患保有者として認識されていないこともわかった)、ゼミのお手伝いや研究員などをしている慶應からワクチン接種のお誘いをいただいた。ということで三田キャンパスまで(記憶が正しければ3年ぶりに)行ってきた。

東京という街はたまに来るとすごく住みたくなるのだけど、いざ住むとすぐさま出て行きたくなる。そういう表面上の整った美しさと中身のグロテスクさを兼ね備えた街だと思う。そういう意味でニューヨークあたりとは少し違う。少なくとも名古屋とは全然違う。僕はそこから脱落した人間なのであまりとやかく言う資格はないのだけれど。

新幹線

新幹線に乗ると(一番前か一番後ろの席しか取らないからというのもあるんだけど)いつも気になることがある。乗務員の方々が扉を出入りするたびに虚空に一礼しているのを、僕を含めた本当に全ての乗客が完全に無視している。これは新幹線という場において当たり前の風景だが、一方で冷静に考えると異様な状況でもあると思う。なにか、人としてとんでもなく間違った行いをしているのではないかという気がして不安になってくる(かといっていちいち一礼を返す余裕も勇気も僕は持ち合わせていないのだが)。スーパーマーケットで裏から出てくる血塗れのエプロンをしたお兄さんも一礼しているし、終電から降りてくる僕らを見送る駅員さんも一礼している。0時13分に利用して1回240円しか払わない俺なんかに一礼するのは頼むからやめてくれ。

時々、死後に自分の人生の善行悪行を評価されるその基準が今までに殺した蟻の数だったらと思うことがあるが、それと同様に、他人の一礼を無視した回数によって地獄に行くかどうかが決まるという可能性も捨て切れない。評価関数がそんな単純なものではないことを祈るばかりだ。

新幹線で品川に降り立つと、これまでならこちらを睨みつけるような表情で威圧的に聳え立っていたタワー群も、心なしか元気を失っているように見えた。単純に驚くほど人が少なく、もしかするとこんなに空いている山手線には乗ったことがないかもしれない。慶應はあの頃と同じように僕を迎えてくれたが、威信のようなものが心なしか少し小さく見えたのもまた事実だった。

ワクチン

ワクチン接種の会場では驚愕するほどスムーズなオペレーションが展開されており、時間になり順路に従って歩いていたらいつの間にか接種も待機も終わり、本当に頭が下がるばかりだった。これは大学をあげて力を入れないとできないことだというのは大学に勤めるものとして推察できる。

ワクチンに関して僕が幸運だったのは(あれは幸運だったのだと自分に言い聞かすしかないのは)、ワクチンで多少腕が上がらなくなろうが熱が出ようが、つい2ヶ月前までろくに起き上がることもできないレベルでくたばっていた僕にとって、重篤でない程度のあらゆる副反応は全て許容できるという点だった。確かに左肩は痛いが、正直言うと集中治療室にいた頃に異常な頻度で麻酔の筋肉注射をお願いしていた右肩にまだ感覚がないことの方が違和感は大きい。ちなみにここでいう「重篤でない程度」とは「命に関わるようなものではない」という意味であり、個人レベルで38度の発熱で辛い思いをした、といったことは確率的には起きうるのだろうと思う。これを機に、一般の人が考える「重篤さ」に相当する言葉を普及させることにより「重篤さ」という言葉の持つ重篤さをもう少し際立たせてもいいのではないかとも思う。

ということで僕は、1回目の接種に関しては軽い肩の痛みとプラセボかもしれない程度の怠さが少し続いた程度で終わった。