無題

八事の交差点で23時、一回も店内に足を踏み入れたことのないゲーセンの外壁の縁に座ってファミチキを齧る。まるで僕は責任なんて何ひとつも負っていませんとでも言うかのような面で。しかしその実、僕は責任を負いたくないわけではなく、責任を負っているように見られたくないだけというのが正しい。仕事とは責任を負うことなのだ。

実店舗での購買体験における身体性が重要であるのと同じように、身体性の欠け落ちたバーチャル修学旅行(あるいはその他様々登場しているコロナ代替財としてのバーチャル体験)は「仮想」を軽視しすぎている節がある。まあせめてやれることを提供してあげたいという善意なのだろうけど。しかし無垢な善意ほど粘り強く厄介なものもあまりない。

コロナのリスクよりも”今”を優先できている人たちを見ると、彼ら彼女らは僕よりも禍いから逃げ遂せているのだなと羨ましくなる。僕の目から数字として見えている現実と世間のリスク評価に基づく現実はあまりにも異なるが、にもかかわらず責任プレミアムは一向に支払われない。これは決して俺に金を払えといっているわけではなく、この瞬間だけは責任などなければと願ってしまう。

いつの時代も若者は叩かれるものだが、その材料にコロナを使うのはあまり褒められたことではない。個人的には路上飲みの及ぼす効果についてはもう少し科学的に検証されてもいいと思っている。

名誉職というのは基本的に名誉を欲しがるような人間しかやりたがらないからこうもろくなことにならないのではないかと最近は思っている。選択バイアスは一生付き纏う。

年齢ボーナスが少しずつ減ってきている気がする。「年齢ボーナスが減ればその分”経験”が君を補うんだよ」というのは同僚の先生の言葉でそれに救われたところは少なからずあるが、年齢ボーナスと時代(=コロナ禍)との交互作用でメンタルにわけのわからない抑圧が起きていることは否めず、これに関しては本当に心の底からキレている。

こんなブログを40までやってたらやばいじゃん?という話を最近よくするが、よく考えると30でやってるのも既にやばいし、なんなら40になっても普通にやってそうな気がする。

35ぐらいには変な髪の色もやめようかと思っているという話をすると、ゼミ生は「周りに理解してくれる人が居ればそれ以上は別によくないですか?」と言ってくれる。彼ら彼女らはちゃんとうちのゼミ生をやっている。何より、どうせ35になっても何かしら理由をつけてやめないのだと思う。