理論なんて、データなんて、勉強なんて。

理論なんて、データなんて、勉強なんて。

俺も実際面と向かって言われたことあるんだけど、芸術方面からは「数式とかデータなんかより心なんだよ!俺たちは機械じゃない!人間なんだぞ!」とか言われ、実務方面からは「ビジネス的にスケールしないものは研究だろうと無価値。これはビジネスの世界なら常識。」とか言われる。科学(というより俺)が可哀想になるぐらい散々な言われ様である。お前たちに人の心はないのか。俺を世紀のマッドサイエンティストかなんかと勘違いしてやいないか。俺はただの遊び人のクズなんですけど。

しかしたとえば理論なんてと歌う音楽を「聴くに耐える」クオリティまで引き上げ、市場性をもった作品に仕上げるためのソフトウェアは疑いようもなく理論と研究により作り上げられている。そもそも今の多くの音楽なんて計算機科学がなかったら成り立っていない。

そういう意味では、芸術領域として考えても市場経済として考えても、科学が付加価値の生成に加担しているにも関わらず、人々はそれに対して極めて無自覚だったり、なんならそれを見て見ぬふりしようとする時すらある。理解しようとしない人たちというのがいるのだ。

たとえば研究価値を伝えるにあたり「本当に頭の良い人は素人にでも分かりやすく伝えることができる」とかいう人がいて、まあ間違いではないんだけど、そうやって自分の浅学を正当化するのはやめたほうがいい。次の論文にしたって、一般の人向けには「もし御社のスマホアプリ利用者の最初の1週間の利用状況からやめる早さを予測できたらどうでしょうか?」って言うし、同じ領域の研究者相手なら「Clumpinessの指標を改良して、GLMで実データに当てて予測精度の変化を見ました」って言う。それ以上は聴く側の理解への努力なしには進められない。これは講義やってて痛感する。

しかしながら、そういう人々にとってさえも、彼ら彼女らの視界に入ってこない領域で、科学と積み上げられ続ける知識・経験が確実にこの社会を豊かにしている。この現実を見るたび本当に最高なことだなと思う。(ちなみに研究が「役に立つ」かどうかでは議論したくないので「豊かにしている」と表現しています。役に立たない研究でも社会を豊かにすることはできるので。)