神という名の関数が組み上げる世界の話

神という名の関数が組み上げる世界の話

僕は生まれてこの方ずっと神なんかいないと思ってきたのだが、ここ半年ぐらいで実は神はいるのではないかという気がしてきた。

これまで神というと、人のような形をした半裸の寡黙なおっさんにして、背中には全然飛べなさそうな重たい白翼を携え(そしてやはりいつも翼を全く使わずに宙に浮いている)、汚い白ひげを生やして優しげな笑みを貼り付けた西洋人みたいなイメージしかなかった。これ以降この存在のことを”神様”と書く。

そういうなにか超人的な存在たる彼(彼?)の役割は主に、民衆の「絶対的な存在を仮定しそれにすがることで自分が生きやすくなるための仕組み」みたいなもので、存在しないにもかかわらずそれを仮定することで物事がスムーズになるという意味では構成概念に近い。そう考えると、”神様”が存在するかどうかという議論自体が、(”神様”がいるにせよいないにせよ所詮は)人々の中での物事の消費の方法(自分の中での片付け方)が変わるだけに過ぎないという意味でこれまではどうでもよかった。

そういう「片付け方」の話としては障害をChallengedと呼ぶのなんかもそう。生まれてくるときに高レベル(challenging)な人生を選んだすごい人たちなんだよ、みたいな考え方それ自体は、どうしようもなく確率的に降りかかってくる不幸を自分の中でうまく処理したり、他者の差別意識を牽制したりするシステムとして非常にうまく機能している。社会を円滑に回すための仕組みづくりなのだ。

しかし”神様”含めこういう類のものはどうしても与えられた状況をいかにポジティブに解釈するかという事後的な辻褄合わせゲームのようで欺瞞的に思えてしまう。俺は家系に連綿と続く自分の病のことを呪いと呼んでいて、そういう状況に落とし込まれた以上そこに対してチャレンジはするが、しかし俺が自発的に選んだチャレンジだとはちょっと思えない。それは俺の意図とは全く無関係な、明らかにpredeterminedな話だ。

今の日本では宗教という言葉自体にどうも詐欺みたいなイメージが強すぎるから悪いのだが、例えばコロナなんかでも、「不安要素を払拭するに値する情報」を与えられた状況で、情報のみで自分を安心させられる人たちがいる一方で、必ずしもそれでは納得できない人たちもいる。思うに、そういう人たちにはすがるべき絶対的な存在を与えてあげるべきなんじゃないか。宗教がこれだけ広まっているのにはそれなりの理由というか、それが必要とされるべくしてされている人間の特性というものがあるんだろうと思う。

日本は割と科学と宗教は相容れないみたいなことを思っている人も多いみたいだけど、しかし西洋だとゴリゴリの物理屋でも根底には結構強固な宗教観を持っていたりする。たとえばまさにそこのconflictに対し”Science without religion is lame, religion without science is blind”という言葉を残したのはアインシュタインだと言われているし、同じく神に関しても”God is a mystery. But a comprehensible mystery”と言っている。僕が上で述べた構成概念としての”神様”もこれに近い。

「神」という言葉が表す存在が漠然としすぎているからいけないというのもあるのだが、そんなどうでもいい存在だった”神様”も、実は存在しているのではないかという気がしてきた。ここでいう神というのは「この世界を統一的に司る定理」みたいなもので、つまり神は「いる」というより「ある」という方が正しい。

最近自分がシミュレーションとかやるのにたとえばDockerのコンテナ使ったり仮想環境を立てたりしていくつもの並行した世界を作っているわけだけど、そこで世界の差異として関数に与えるのはいくつかのパラメータの値だけ。そしてそのサンドボックス化された仮想世界はそれ一つで完結しているからその外側は決して認知できない。俺は研究の中でそうやっていくつもの世界を作っては手の届かない外界から観測することを続けているわけだけど、そんなことばかりしていると自分のいるこの世界自体も、同様にそれを構成する関数みたいなものと、そこに与えるべきパラメータで組まれているような気がしてくる。ここでいう「神」とは”神様”なんていうものではなく、世界を決定づけるパラメータの値(欲をいうと関数自体もだけど)のことだ。

コンピューターシミュレーションの中にいるのではないか、みたいな話は割と陳腐でよくある話だけど、(仮にそれが真実だったとしても)だからといってその俯瞰的な流れとは別に人間として生きることに甘んじなければいけないことに変わりはない(友人の言葉を借りるなら「個別の現実や体系を鳥瞰する視点は不可能」)。それはたとえば進化心理学において生物が所詮はDNAのキャリアに過ぎないと言われていたとしても、だからといって我々は自身のDNAの呪縛から逃れる方向に活動したところで仕方がないのと同じであり、俺の身にまとわりつく呪いは所詮どう頑張っても解くことはできないのだから、人並みに生きるためにはそこにチャレンジしていかなければいけないのとも同じなのだった。

だからこそ、我々は”神様”にもう少しすがってもいいのかなーという気がしている。自分の不安定さを処理するためにわざわざ他者を介在するぐらいなら、それを”神様”に押し付ける方が社会的な負担は減るのだ。