あんなに確率的思考を求めていたはずなのに

もし僕らが人間として目指していた「知的活動」—あるいは知性なんて呼んでもいいが—、それが実は単なる確率過程(ここではとりあえずそう呼んでおく)—さながらディープラーニングが最も高い確率の選択肢をSoftmax関数で選び取るかのように—、だったとしたら、そして生まれた瞬間から今現在までのオンライン学習の継続によりその精度を高めてきただけだったとしたら…最近個人的には「まず行動」から「行動の前に考える」に揺り戻しがきているんだけど、Softmaxの精度を上げるにはやはり結局のところ試行回数を増やしたほうがいいのではないか?

…なんて考えていて気づいたけど、思考が確率的なのは(我々が確率的思考なんて呼んでいるまさにそのものとして)当たり前なのではないか。

もちろん僕らの”判断”は最終的にはSoftmaxかもしれないが、そこに至るまでに様々なマルチモーダル学習を経ているはずで、つまりは意思決定にあたってのリスクとベネフィットを(なぜ僕らはこの表現をするときいつもリスクを先に出すのか)天秤にかけているはずで、無意識的にも確率(のようなもの、あるいはそれを感情に変換したz-scoreのようななにか)で比較はされているはずだろ。

てか確率過程ってなんだ。

「確率過程とは時間とともに変動する偶然現象を記述するための数学モデルである」(井原, 2009

あっこれtwitterの人たちがかっこつけて確率過程とか言ってるだけくさいな。時系列的な確率変数の記述方法=時系列モデルだと考えると、たとえば株の値動きは非定常性の確率過程として(頑張れば多少は)記述できるけど、逆にある瞬間の意思決定プロセスという名の”過程”を確率過程って呼ぶのはちょっとつらそうだな。やはりこれは思考していると思ったほうがいいんじゃないか。

逆にいうともうディープラーニングだって別に思考していることにすればいいんじゃないか。ディープラーニングは考えることに含まれていて、一方でディープラーニングで時系列モデルを作ったら確率過程になるというかさ。それだけのことで、確率過程という言葉は単純に概念として違うものを指している気がする。その名前自体は置いておくとしても、「僕らはモノを考えていたわけではなく実は単に確率計算をしているだけだったのか!」なんて絶望する人がいるとすれば、いま一度自分自身の思考プロセスを振り返ったほうがいいと思う。みなさんがかっこつけて「確度が高い」とか言ってるのがそれなんだよ。確率的思考自体までもをそこまで崇高なものにするのは(先にも述べたとおり誰しもが無意識的に実行しているはずだという意味で)あまりよろしくない。

あーあ、VRとか使ってなんとかしてdiffusionモデルの確率空間の中に漂ったりできたら楽しそうなんだけどなあ。

今年は海外旅行を再開します。ドバイに行きます。もう旅行計画も立ちつつあります。