政策決定における縦割りの弊害

世の中では高い専門性に基づく提案というのが求められている一方で、専門家の口出しを厄介なものとして振り払おうとする風潮もある。そんな専門性に関する相反する2つの主張がtwitterのタイムラインに同時に流れてきた。

「コロナ対策に自称専門家の言うことを取り入れていたら日本経済は崩壊する」

「大学への補助金関連の委員会での専門家の提言が全て無視された」

僕もコロナ対策の方向性については度々疑問に思うことも多いが、そこでポイントになることとして、疫学などを専門とする彼らは、本気で一人でも多くの人をウイルスの被害から守ろうと思っているというところだ。しかし一方で、これは他ならぬ専門性の弊害でもあるが、高い専門性は分野外への無関心、言い換えるとある意味での縦割り構造を生みかねないという問題もある。

いまコロナ対策のための政策策定には疫学の専門家が多数参画している。専門家の提言に基づく政策決定がなされていることは素晴らしいと思う。思うが、そこでなされる意思決定は多くの場合に目の前のコロナの惨状に対応することだけに強く焦点が置かれ、最近では経済との両立などの観点から懐疑的な目を向ける人も多くなってきた印象がある。

これにはドイツの哲学者Markus Gabrielが言うところの「肝臓専門医は決して酒は飲むなと言うだろうから、肝臓専門医を国のトップに据えたら酒文化がなくなってしまう理論」に近いものがある。つまり専門家はあくまで自身の専門性の観点に基づく最適化しか目指すことはできず、向かうところは必然的に局所最適になる。

言い換えると、「コロナ対策の専門家の意見に基づく政策立案は経済の活性化などの観点から現実的ではない」という指摘がなされたとき、仮にそれが事実だったとして、そこでの問題の核心は結局のところ「対策ボードに疫学の専門家しか入っていない」ということに尽きる。決して「だから専門家の意見など聞くに値しない」に向かってはいけないし、外野の素人がその専門性を蔑むべきではない。

疫学者は疫学的な観点からコロナ対策を提案することはできても、経済対策を考えることはできないし、コロナ対策の重点化による教育への影響を論じることも、環境への影響を評価することもできない。つまり、経済・教育・環境・法律(=人権)など、もっと多方面の専門家が入らないから対策偏重になってバランスがおかしくなる。多方面で経済的な歪みが蓄積されている。新政権の経済政策の方向性も相まって、これから大変なことになりそうな気がする。

コロナに関しては、ビル・ゲイツが数日前に言った”Once Omicron goes through a country then the rest of the year should see far fewer cases so Covid can be treated more like seasonal flu,”を信じたいもんやな。