君はそこにいるか

朝、病棟の窓から外の景色を見下ろし、目の前の学校でランニングしている部活動の生徒を眺めていると、この窓を境界にして世界が完全に2つに隔絶されているのがわかる。

このソファから見える限りでしか世界を知覚できていない今の僕は、自宅や職場、家族に友人が本当に存在しているのかについて全く確証を持つことができない。それは生きているとか死んでいるとかではなく実存としての話で、僕が見ていない瞬間にも月はそこに存在しているのかというのと同じ議論になる。

観念論によれば「存在するとは知覚されることである」と言われたほどだが、だからといって以前述べた知覚ネットワークのようなものあるいは神のような超越的な存在によって彼ら彼女らの実存が確定するというのにもいまいち納得感がない。するとこれはある種の多世界解釈(本来の多世界解釈の定義とは異なり「主体」の数に応じて分岐する世界)のように、そもそも僕と他者(というより全ての主体)は互いに生きている世界が違っていて、もしかすると(僕自身としての自我以外の)誰にも知覚されていない今の僕は、他者からすると確率的存在に過ぎないのかもしれない。

他者の世界では自分自身は揺らぎをもった確率的存在でありながら、同時に自我の世界では原子が寄り集まったマクロのイベントとして正常に挙動しているという重ね合わせが一番面白い。(半分オカルトのような思考実験になってきたが、これはれっきとした科学読本の内容に基づいている。ちなみに僕は主体の行動の選択によって世界が分岐するような考え方にはあまり賛同できない。)

昔、機械学習なんかをやっていると異なるハイパーパラメーターに基づく「並行世界」をいくつも作ってその挙動を観察することになると述べたことがあるが、シミュレーション仮説がそうであるように、僕らがエージェントシミュレーションの主体ではないという保証はどこにもない。もちろん自身を内包した”系”を俯瞰することはできないのであって、僕らはそこまでのメタ的な視点についていくら仮説を立てたところで結局確かめることはできないだろう。だが一方で、この世界の挙動を決めているハイパラが誰かに予め振り当てられた乱数である可能性は誰にも否定できない。