夜のしじまに見る

青森で泊まった宿が忘れられない。雪解けの頃に再訪したい。

末盛通を見下ろす巨大なカーテンを全開にし、ソファに座り、灯りは唯一お気に入りのフロアランプだけをつけ、池田亮司の新譜をかけながら、森博嗣の小説を読み、やたら熱くて苦い珈琲を飲む。世間はクリスマスで賑わっており、窓の外では雪が降っている。このレベルの最高さを感じられる夜は年に数回も訪れない。

毎年クリスマスになると、去年のこの夜は何をしていただろうかと振り返るが、実のところ毎年何も思い出せない。クリスマスの夜だという特別感は抱きつつも、やっていることは結局いつもと同じだからだろう。どのあたりがSilentでHolyなのかいま一度この世界を見渡して考え直した方がいいとは思うが、ある夜がSilentであってかつHolyでもあるという2条件を同時に満たす瞬間というのは、日本的にいえばもしかすると”静寂”なのかもしれない。そういえば「夜のしじま」はいつだって突然の騒々しさから相対化されるときばかりに使われる。2条件が破れるつい一時点前の状態なのかもしれない。

本当にごく稀に、とんでもない速さで頭が回ることがある。ああいう瞬間には、どこか生命維持のためのネジが吹っ飛んでしまったような、そしてその隙間からガソリンが噴き出しているような、そんな感じがする。そこではいつだって展開の思考が整理の思考を置き去りにする。ああいう瞬間を経験してしまうと、本当は整理なんてしなくていいのかもしれないとさえ思ってしまう。森博嗣の言葉でいえば、論文を書いている間は研究を進められない。それと同じ。

しかし普段そこまでCPUが稼働することなどない。全くない。明日も僕はカフェインで頭をぶん回すだろう。同時に加速する心拍数を抑えるために薬を飲むだろう。そして1日かけてカフェインを摂るだけ摂っておいて、最後には自分の望んだ瞬間に眠りに落ちるための眠剤を飲むだろう。僕らは死ぬために生きている。

森さんの一連の著作は、僕にかなり強い影響を与えている。それは彼が大学の(そして大学院の)先輩であり、師匠の同期でもあり、描く舞台があまりにも身近な存在であることにも一端はあるが、それ以上に彼の抱くある意味では古臭い、別の意味ではあまりにも誠実な”科学観”に、今の自分自身の態度が揺さぶられるからだと思う。

つい先日、いまの自分にとって大切なのは何か、やっぱり研究なの?なんて問われたことがあった。しかし、大学でこんな振る舞いをしておいてなんだけど、人生の中で研究が一番大事だと考えている人とは僕は仲良くなれないだろうと思う。大学ではそう振る舞うのが正しいと思っているだけで、実のところ究極的には研究も音楽もどうだっていい。

僕はいろんなことを考えているけど、とにかく何もかも全部がつながる日がいつか来るような気がする。それが来るのが先か、僕が死ぬのが先かは分からないけど、仮に僕の人生がそこで切断されてその先が観測できなくなったとしても、その日は必ず来る。それはChatGPTのような、「連続するいくつもの瞬間における互いに無関係な過程の寄せ集め」(中島義道, 時間を哲学する)ではなく、もっと連続的で有機的な結合として現れる。

何かに気がついて、新しい世界が見えたりするたびに、違うところも見えてくる。自分自身も見えてくるんだ。面白いと思ったり、何かに感動したりするたびに、同じ分だけ、全然関係のない他のことにも気がつく。これは、どこかでバランスを取ろうとするのかもしれないね。たとえば合理的なことを一つ知ると、感情的なことが一つ理解できる。どうも、そういうふうに人間はできているみたいだ。(森博嗣, 幻惑の死と使途