生活

全ては選択

全ては選択

人生は(自分の意思にせよそうでないにせよ)選択の中で進んでいく。選択はそれに伴うリスクとベネフィット、意味合い、社会的な体面などを考慮した上で行われるものだと思う。

みんなマスクしてるけど、その割にたとえばフードコートで座る前にテーブルを自前のアルコールティッシュで拭いてるような奴はほとんどいない。食事の前後に手を拭いてる奴もあんまりいない。スマホを拭いている奴もいない。それでいいんすかね。接触による感染も割と重大な因子だと思うんだけどね。同調圧力への対処のために機械的にマスクしていれば行動は許されてしかし感染は広がるっていうんじゃ意味なくない?

お手拭き的なウェットティッシュを出してくれるお店は多いしありがたいのだが、とにかくそのお手拭きに含まれた液体の成分がわからないのでは困る。それこそ本当にただ水分でウェットなだけなのであれば汚れは取れても消毒はできない。一方でアルコールがついていた場合人によってはアレルギーでかぶれることにもなる。

コロナだろうがなんだろうが子供はイオンの床に寝転がって駄々をこねるし、誰が触ったかもわからない無印のベッドにダイブする。俺は決してそれを不衛生だとか言って嫌がっているわけではなく(まあつり革も触れない人間としてもちろん汚いとは思うけど、それは仕方のないことでもある)、むしろコロナになっても行動は本質的には変わらないんだということが確認できたようで、正直少し安心した。子供たちが親への反抗の手段として取るいくつかの行動は本質的なものなのか、つまり選択「させられた」結果なのかどうかというのは結構興味深い。

一方でこれは俺の選択なので文句を言う資格もないけど、俺が八事イオンのフードコートで半日ずっと小説を読んでいれば、薄ら笑いでこっちをみてくる人もいる。当たり前のことだが大学教員は大学にしか棲息していないわけではない。大須で唐揚げをかじりながら歩いていることもあれば栄で買い物袋片手にぶらついていることもある。

怒涛の忙しさだったここしばらくから久々にゆっくりできた日曜の夕方、数年ぶりに昔行っていたバーに行った。そこでマスターと話していて思ったことには、人生は選択の連続だが、そこにおいて持ちうるリソースに限度がある場合には普段のような「全部やる」が通用しないこともある。そこでは自己実現(というか自己実現も含めた人生の優先事項の達成)のための最適資源配分の問題が生じる。つまるところ、優先順位が他の人と違うなら、時には他者にとっての「普通」を犠牲にする必要も出てくるということだ。

仕事兼趣味としての自分の理想のバーをやるために他を犠牲にし、「生活としてこれは必ずしも理想の形ではないけど、全てを取ることはできない以上やりたいことをやれている今の生活に後悔はしていないよ」と言い切るマスターを見たとき、俺も20年後こうなっているのかな、と漠然と思った。別にそうなりたくないと思っているわけではない。優先順位に基づく選択の連続の結果というのはまあそんなものなのだ。

ちなみに、専門ゼミ志望にあたって「こんな髪の色の先生は初めて見た」みたいな意見が時々来るんだけど、そこから読み取ってほしいのは俺の表面的な選択としての「髪の色が社会人として非常識」という事実ではなく、より内面的な「うちのゼミは結果主義なのでその過程でそんな格好や態度をしていようがどうでもいい」ということです。