青の時代と夏の虫

20時を過ぎるといきなり24時に飛んだかのように街が真っ暗になる。明かりがついているのはアパートとコンビニくらいで、人々は夏の虫みたいにコンビニに吸い込まれていく。コンビニは俺ような虫けら相手にも決して振り払うことなくいつでも受け入れてくれる。

そして24時を回る頃にはすっかり午前2時ぐらいの景色になる。最寄りのコンビニにはひっきりなしにワゴンRみたいな車に乗った少数グループが宅飲みのためのなにか色々を買いに来る。店の隣では相変わらずいつも誰かしらが路上飲みしている。俺はすぐ近くの歩道橋の上でオレンジジュースを飲みながらそれを眺めていて、たまに隠し撮りされているのも知っている。

別にどうでもいい。ここには俺含め、全てがどうでもいい人しかいないのだ。ある意味でこの世界は人間の双曲割引の程度の差を可視化した。双曲割引の分析は職業などのデモグラ諸変数をしっかり統制して慎重に行うべきであることがよくわかる。

本当に不思議な世界になった。せわしなく回り続けていた社会の歯車がガクンと止まり、油を差してももう回らなくなった。なのになぜか、なんとなく社会は回っている。昔よりコンビニ周りに落ちているタバコの吸殻の数は増え、コンビニ前がこんなにタバコ臭いと感じることはここ数年あまりなかったように思う。一体誰が掃除してくれているのだろう。

社会人になってひとつ分かったことがあるとすれば、考える時間があることほど不幸なものはない。日々に忙殺され考えることを忘れていた方が間違いなく幸せで、朝から晩までせわしなく働くことの利点はそこにある。逆にいうと本当にそれしかない。

周りの友人あるいは知り合い、社会の成り行きや自分たちの身の振り方についてともに悩んだ人々が考えるのをやめている姿を見かけるが、それは彼ら彼女らが悪いわけではなく、目の前に対処すべき現実が大きすぎるだけだ。

いわゆる陰謀論にはまった人を揶揄するのは簡単だが、しかし、それだけ人々は今の状況に疲弊しているということなんだろうと思う。考えないようにするのが一番楽なのだが、人は調べ、考えてしまう。宗教と同じで、確からしいなにかや拠り所が欲しくなるのは当然のことだし、不安が募る時ほどわかりやすい理屈や叩ける誰かを求めたくなるものだ。

ここ1週間でとても悲しいことがいくつも立て続けに起きた。残念なことに、人生には本当に試練が多い。程度の差はあれ、誰しもに多かれ少なかれ試練が降り注ぐ。

全ての人が何も考えずにヘラヘラ笑っているだけで楽しく暮らせたらどれほどいいだろうか。

もし人間から考える力が奪われて世界中が動物園になったとしても、それによって誰ひとりも不幸にならないのだとすれば、みんな一斉に馬鹿になるのも意外と悪くはないのかもしれない。考える葦として苦しい世界を生き抜くことなどに本当にプライドを持つべきかは時に疑わしい。我々は夏の虫なのだ。