本当にかなしいこと

人を殺すなんてありえない!あんなおかしな連中は俺たち普通の人間とは違う!本気でそう考えている人たちがいる。しかしその彼ら彼女らが、今日も平然と信号を無視して歩き去っていく。

俺にはそれが何よりもこわい。時に、対岸で信号待ちしている俺をまるで見下すかのような表情をしていることすらある。

人を殺すような人間と自分という人間は一体どれほど違うのだろうか。なぜそうも自信をもって「何もかもが全く異なる」と言い切れるのか。

他人のある特異な行動を特異な要因に求めたい気持ちは痛いほどわかる。そうすることで自分とは異なる属性の存在として切り離すことができるし、”色々なこと”から逃れられて気持ちはずっと楽になるだろう。

スロヴェニアの哲学者ジジェク(Slavoj Žižek)はあるインタビューのなかで「環境に配慮した商品を選んで購入することは、人々の消費行動を正当化しその罪悪感を解消させている」(i.e.,「高い金を出してわざわざ”環境に配慮した商品”なるものを買っているんだから、これ以上環境について煩わしい口出しをせず消費を謳歌させてくれ」の意)と述べていたけど、それと近しい形で—つまりある種の免罪符的に—人々は他人から(より正確には殺人を犯した人々と自分との類似性から)目を逸らしているのではないかと感じる。

もっというと、これらの物事を”犯罪”という観点から眺めてしまうと、もはや殺人(刑法第199条違反)でも信号無視(道路交通法7条違反)でも同じ犯法という枠組みの中の程度問題に過ぎなくなる。しかもその程度というのも懲役などの”刑”の程度問題に過ぎないという意味では、その実ほとんど同じなのかもしれない。まあ専門外すぎてそのあたりは語れないが。

本山の交差点の小さな横断歩道では今日も元気に信号が無視されている。でもその大半の人々がマスクはしていて、そして(これは予想に過ぎないが)おそらく人殺しはしていないだろう。

なぜ人は殺さないのに信号は守らないのか。どうしてその口で他人を犯罪者だと詰ることができるのか。なぜ殺しを詰りながら贖罪として死を求めるのか。何もかもがわからないし、何もかもが怖い。俺は人がこわい。

俺はたとえ国家が主体であろうと、ある人間の命を奪うなんていうことは許されるべきではないという立場にある。もし仮に”とんでもないこと”をしてしまった、そしてもう”やり直し”も効かない、そんな人たちがいるのだとしたら、そしてそれでも彼らが死なずに塀の中で最低限文化的に生きられるのだとしたら、そのための税金を払うことに抵抗はない。

俺は別に法律が常に正しいとは思っていない。変えるべきことはたくさんある。しかしそれとは全く別箇の問題として、現実に法律は守った方がいい。それは今この世界の歯車を”一応”動かすための必要条件なのだ。歯車をよりうまく回すための方法なんていうのは、その後に考えればいいことだ。

かなしい。本当にかなしい。どうかゆっくり休んでください。