「占いは統計学だから」みたいなやつのことで

原因不明の奇病に次々冒されながらもなんとか4月中に論文を2つ投稿することができた。ということで来週末ぐらいまではかなり好き勝手にやろうと思う。

最近、占いの人たちは何かにつけて「占いは統計学だ」と言う。そういうの名乗るのは別にいいけど、単に学問的な権威付けが欲しいだけで大して突き詰めて考えてはいないんだろうなと思うことが多い。何より、いろいろと調べてみると「占いは統計学だ」というのは主張というより願望に近いように思えてくる。

たとえば手相(手相占い)というものを考えてみると、これは手の皺という身体的特徴からその人の――身体的、精神的、あるいはその両方の――平均的傾向を見出そうとする行いと、そこから得られる知見に基づいたカウンセリングという2段階の行為だと説明できる。ここで”統計学”という学問に期待されている役割とは、まさに「手の皺からそれらの平均的傾向を見出すことは可能である(あってほしい)」という信念の裏張りとなることである。

個人的には、これは統計学というよりは統計学に基づく現代医学の方法論に部分的には近いと思う。もちろん、だからといって「占いは医学である」とはさすがに主張できないのであろうと思う。

少なくとも、手の皺を観察している(と見せかけている)時間で得られる情報は意外と多い。本人の外見や話し方、表情などはもちろんだが、手に限定しても、指の細さや長さ、爪の形状や清潔度合いなどさまざまなことが観測可能である。

他ならない僕自身を例として語るとすれば、マルファン症候群の人間の手はかなり特徴的な形状をしている(ことが多い)。マルファンの可能性が上がるだけでも、平均的傾向として「視力の悪さ」「腰痛をはじめとした関節痛」「将来的な心疾患のリスク」の3つくらいは言える(しかもそもそも日本人は平均的に視力が低い)。マルファンでこのどれにも当たらずに人生を上がれる人はおそらくそう多くはないが、一方でマルファンの確定診断を受けるのは若いうちばかりではない。幼いうちに手の形状のみから心疾患リスクをやんわり予言できるとすれば、それは的中内容として決して悪くはないだろう。

だから統計学というより統計に基づく医学に近いって話になるわけだ。つまり1万人に1人のマルファン症候群の事例に限らず、手に特定の所見が得られるかどうかで特定の症状、傾向、振る舞いなどのオッズ比が高まるような関係性をひたすら頭に叩き込んでいけばいい。あとはそれらを実践で指摘できれば、的中率は飛躍的に向上する。これは、単なる統計学と呼ぶには少し重たすぎるように思えてしまう。

思えばtwitterで知り合った大学の先輩で手の神経の研究をしている人がいたが、あれくらいしっかり勉強すればきっと手の形状から何かしらの病などの傾向を言い当てることも可能かもしれない。果たして、そこまでまでして占いを名乗る必要はあるのだろうか?