リヒターと地獄のインスタグラム展

豊田市美術館までゲルハルト・リヒター展を観にいってきた。

結果からいうと最高だった。それはつまり最低だったということなんだけど。

色々と書くべきことはあるけど、公共空間たるWeb上には、今回のリヒター展のメインでもあるビルケナウ<Birkenau>に関してのみ書いておこうと思う。

今回の展示に限らずビルケナウの展示では、(いろいろな経緯はあるにせよ)ビルケナウの飾られているあの空間、あそこではアウシュビッツで秘密裏に撮影された4枚の写真を挟むような形で両側に作品が展開されている。その時点で、タイトル含めその含意というか、時代として共有すべき問題意識は(多少の認識の差こそあれ)あまりにも明白だと思う。…明白なはずだと思う。

その場に、少し遅れて入ってきた意識高い系お洒落カップルみたいな人たち。僕は2人がビルケナウの目の前でピースしながら記念撮影を始める場面に遭遇する。

僕は、地獄に来てしまったんだと思った。

作品への触れ方、楽しみ方は人それぞれなんだけどね。それはそうなんだけどね。

アート市場は民主化されている。市場が民主化されているというのは、端的には市場化されているということであり、お金さえ出せば誰でも作品を見たり買ったりできる世界になっている。これは素晴らしいことだ。

最近は現代アートの授業や解説をすることが時々あるので、その資料からいくつか引用したいのだけれど、たとえば美術手帖オンラインで連載されている『10ヶ月で学ぶ現代アート:「現代アート」の「現代」は何を意味する?』では、”現代のアート”においては現代=contemporaryとは「同時代的」であり、つまり作品には同じ時代の問題意識や空気感が(無意識的にも)含意されていることが述べられている。

そして現代音楽の作曲家Milton Babbittは、

現代音楽は聴き手にかつてない程の音楽聴取の訓練や教育、知識、経験を要求する。(Babbitt, 1958; 高岡, 2011訳)

と述べている。あるいは、

現代アートにおいては、何を描いており、それがなぜ評価されているかを理解するには、美術史の知識が不可欠である。/ 作品が属する分野での立ち位置や批評性、作家の背景や社会状況と絡めて評価される (巴山, 2019)

という指摘もある。それはつまり、現代アートという点では音楽にせよ絵にせよ、その鑑賞にあたって”文脈”の理解は避けては通れないということ。

とはいえ、ビルケナウはそんなことをいう必要もないほどにわかりやすくその問題意識が伝わるよう、リヒターはわざわざ写真を飾り、後から作品名まで付与している。それほどまでに、彼にとってはどうしても伝える必要があったのだと思う。

その作品の前で、笑顔で写真撮ってインスタのストーリーにあげるのは果たして”正解”なのだろうか。もちろん正解することだけが正解なわけではないんだけれども。

あの空間の正面には(というか近年のビルケナウの展示には)ビルケナウそれ自体に加えて、現実を灰色に塗り潰し、作品として取り込んでしまう魔法のようなキャンバス《グレイの鏡》が設置されている。別の部屋には血に染めるキャンバスもあった。

意味も考えず表層だけを楽しむ人々の姿を、僕は魔法の窓から灰色の世界の一部として作品に収めていて、その僕自身も作品として切り取られている。

全てが地獄であり、最低だった。

参考文献

Milton, Babbitt. (1958). Who cares if you listen?. High Fidelity, 8(2), 38-40.

高岡明 (2011)現代音楽の有意性について:レナード・マイヤーによる現代音楽批判. 先端芸術音楽創作学会 会報. 3(1), 5–24.

巴山竜来 (2019) 数学から創るジェネラティブアート―Processingで学ぶかたちのデザイン. 技術評論社.

山本浩貴 (2022) 10ヶ月で学ぶ現代アート:「現代アート」の「現代」は何を意味する?──現代アートの「意義」. 美術手帖オンライン.(第1回~第3回)