僕らはただマトリックスの中で

機械学習なんかをやっていると異なるハイパーパラメーターに基づく『並行世界』をいくつも作ってその差異を観察することがある。僕らはそうやって普通に幾つもの”セカイ”を作っては偉そうに観察しているが、そもそも僕ら自身が同様にエージェントシミュレーションの主体として、我々が現実と呼ぶこの”セカイ”の中に放り込まれ観察されていないという保証はどこにもない。

大学の助教としての最後のブログ記事がこれなのはなんとも言い難いものもあるが、昔から何も変わっていないことの証左にはなりそうだ。

エージェントシミュレーションとは、世界を規定するルールとしての原理と、そこに存在する主体(エージェント)の初期状態だけを与えておいて、あとは原理がエージェントに及ぼす影響や、エージェント同士の経時的な相互作用を観察することで世界の変化を調べていく作業を指している(極端すぎるが分かりやすさを優先してテーマを書くなら「地球の重力が今の1.2倍になるよう世界の仕組みを設定したら人間活動はどう変化するのか?」など)。そこでは、初期的に与えられる原理やエージェントの数・性質といったパラメータがほんの少し変化するだけで、将来のセカイが全く異なる結果に進んでいく、そんないわゆる”カオス性”が垣間見れる。

僕はこの”規定”やそれを決める存在を“神”と呼ぶことにしている。つまり僕がシミュレーションのために作った世界においては僕が”神”になるわけだ。バカみたいだな。

シミュレーション仮説はさながら僕ら自身が「マトリックス」の中にいるかのような話だが、あれとの違いといえば、世界の構成員たちは、自身を内包する”系”を決して俯瞰することはできないという一点に尽きる。「何かしらのバグを使って虚構世界から抜け出す」、それはマトリックスが特殊だっただけの話で、一般的にこういったシミュレーションで生成される全ての並行世界はサンドボックス化されている。つまりはその世界だけで完結しており、世界内外を跨ぐ干渉は発生し得ず、サンドボックスの内部から外的世界を感知することなどできるはずもない。

僕が機械学習のハイパーパラメータを設定して作った”セカイ”の中のエージェントが、「これはシミュレーション上の世界だ!本当の世界は外側にあるんだ!」と(言い出すことすらあり得ないが、仮に言い出したとしても)そのエージェントが僕にメッセージを送ったり、あるいは僕らにとっての現実世界に飛び出してきたりすることはもちろん不可能なわけだ。僕は「失敗した…」と呟きながらそのセカイを丸ごと全部クリック一つで消滅させ、またパラメータを少し変えて新しいセカイを作る。神とはそういうものだと思う。

まだ相変わらず読んでいる『マルクス・ガブリエル 危機の時代を語る』のp.122以降から始まる「マトリックスの哲学」というセクションから一文を引用すると、ここでマルクスの対談相手チャーマーズ (David Chalmars) は目の前に置かれたグラスについて「もし私たちがシミュレーションの中にいるなら、私たちは、グラスは完璧に実在していると言うべきです」と言っている。これは面白い。たしかに、マトリックスの中に作られた”セカイ”が、あるいはシミュレーションによって生成される”セカイ”が、外的世界から見れば虚構に過ぎないとしても、内部のエージェントにとってみればそれは確実に完結した世界であり、言い換えれば現実であり、つまりは実在以外の何ものでもないのかもしれない。

ここで突然話を「意識」に移すと、我々は(というより、他人がどうなのかは知らないにしても少なくとも俺は)他者が意識や自我(自意識)を持つどうかを大して判別できない。先日もゼミ生に「AIは自我を持っていると思いますか?」と質問されたが、俺はそもそも目の前にいるキミが自我を持っているかどうかすらわからないのだよ。何より、以前の「分析哲学から好き勝手に考える話(1)」から引用(これは考察というよりはほぼ書籍の記述そのままだが)するなら、「我々はある概念に関して、それを自身が理解するために持つ私秘的なイメージを他者のそれとは決して比較できない。」というまさにそれとして、我々はそもそもお互いが用いている「意識」という言葉が厳密に同じ対象を指しているかどうかすらろくに確認する術を持たない。

僕はあくまでデータサイエンスの人間であり、人間はその行動のほとんどを脳に由来して起こしていると信じているけど、しかし一方で脳は明らかに「勝手に」動いている。勝手に俺の壊れかけの心臓を動かし、勝手に食べ物を消化する。「自分とはこの脳である」と「自分とはこの意識である」は全く異なる。書籍の中では、意識と脳の部位に対応関係はあるかもしれないが、それをもって意識の説明にはならないという記述があり、もしかするとそれはそうかもしれないとも思う。

ここからとんでもないことを書くが(これは書籍にも書かれていることで、俺も最初読んだときはとんでもないなと思ったが)、たとえばの話として、もしかすると我々が操作するゲーム上のキャラクターにすらも意識があり、彼ら彼女らは(実際には操作されているにもかかわらず)自分の意思で行動していると信じている可能性すら捨てきれなくなってくる。それは仮に脳というものが情報を処理する演算機能のみを持ち合わせているとすると、一般的な半導体とやっていることに大差がなくなってしまうからだという。演算する機械には無条件で意識が発生する、と言い始めるとこういうことになる。これはおそらく言い過ぎだと思うが。

もしこれを我々に適用すると、我々はもはやエージェントですらなくなってしまう。エージェントはあくまで初期状態を与えられた上で自律的に行動するものだが、こうなってくると我々はあくまで操作されているに過ぎなくなってしまう。そうなればシミュレーションする意味もない。

個人的には、先ほど脳が「勝手に」動いていると書いたように、意識の発生プロセスの部分は、脳というハードウェア(インフラ)の上でOSのような形で自動的に走っていて、我々の自意識はアプリケーションとしてそのもう一つ上で走っているのではないかという気がする。

明後日4/2(土)の夕方に新曲を出します。哲学論考はどうでもいいのでそっちを聴いてください。