掛け算の順番

式を立てるにあたっての「掛け算の順番」という議論は定期的にネットに巻き起こる。たとえば「A個をB組用意することをもってA×Bという順序で記述すべきだ」みたいなやつ。

正直、何年間もずっと心底どうでもいいと思っていたんだけど、twitterとか眺めてると賛成派の論理が多くの場合に極めて稚拙なので、もうちょっとまともな言い訳はないのだろうかと色々考えていたら結果として賛成派みたいな文章が書けてしまった。だっっっさいエクスキューズを書いておくと、俺自身も深層学習だの統計だので式をこねくり回している人間なので、積の順序が大正義だとは全く思っていません。これはあくまで思考実験です。

冷静に考えたときに、交換法則により積というものが可換であることと、積という概念そのものの導入にあたって順序を重視することはそもそも両立しうる気がするし、なおかつ一方の成立をもって他方を排斥することはできないのではないか。言い換えると、「可換性」(=結果が変わらないから交換してもいいということ)と、「定式化」(=日本語を数式に翻訳すること)はそもそも全く別の段階の議論ではないのだろうか。反対派の「そんなこと言い出したら式変形もできねえじゃんwww」みたいな指摘にもいえることとして、式を立てることとそれを解くことを同じ段階で議論すべきではないと思う。

たとえば可換性を持たない演算としての引き算では、場合によっては定式化が間違っていた時点で減点される。そしてそこで考えるべきこととして、その減点は意味合いとしては、日本語から数式への翻訳能力に対するペナルティに他ならず、可換性どころか結果がどうなるかの議論すら行われていない段階での減点となる。

つまり定式化にあたって、結果が変化するかどうかのみを判断の拠り所として、可換性を持たない演算では順序を問題としながら、可換性を持つ演算では問題としないというのはどうも話として成り立っていないのではないかとすら思いはじめてしまった(これは誰かに否定してほしい)。そもそも掛け算以外の場において「結果」のみを判断の拠り所にできるような教育がされていたかすら正直疑わしい。結果が正しければいいとなると、たとえば引き算でもまるで違う式を立てておきながら最終的に得られる結果がたまたま同じであったとき(e.g., 5-3=2を7-5=2と解く)、翻訳能力が問題とされないとこれは許されるのかな。条件反射的に「許されねえに決まってんだろ」といえてしまうとすれば、自分の受けた教育を過信しすぎているようにも思える。

他方で、これは留意すべき点として、積の順序を重視しようとする勢が、十分な検討なしに「 A × B とは数量AをB組用意することだ」と暗に翻訳してしまっていることはかなり危険だと思う。そもそもA × Bとは本当にそれを意味しているのか、その翻訳が正しいのかどうかが疑わしい。そしてそれを確かめるには相当に歴史を立ち戻らなければいけない。なにより「掛ける数」「掛けられる数」という言葉の意味がわからない。それが全て悪い。掛けられるとは一体何なのか。

ただ、もし掛け算に「掛ける側の主体」と「掛けられる側の客体」が存在しているのだとすれば、これはやりようによっては順序の話と議論としてある程度一致させて語ることもできてしまう。やるかどうかは別としても、そういう余地は残されている。

一通り書いて思ったけど自分の思考に嵌まってしまった感が否めない。

*念のため書いておくとこれはあくまで導入教育の話であり、数学自体として僕個人は乗法の順序は本当に全くもってどうでもいいと思っています。僕の統計学入門の授業などで式の順序を見るなんていう馬鹿らしいことは未来永劫絶対にしません。