分析哲学から好き勝手に考える話(1)

先日から青山拓央『分析哲学講義』を読み始めて、いつもは機械学習を哲学的に分解することが多いのだけれど、今回は哲学を機械学習的に分解することになった。色々と考えるきっかけになる面白い本で、なぜもっと早く手に取らなかったのかとすら思う。

我々はある概念に関して、それを自身が理解するために持つ私秘的なイメージを他者のそれとは決して比較できない。それ自体はわかりきっていることだが、そういった概念を他者のそれと比較するためのツールとしてイメージを考えると、イメージは概念以上に細部を捉えてしまう(あるいはそれ未満にしか細部を捉えられない)ことにより、概念と一致したイメージを描写することはできないということが問題とされた(もっといえば描写したイメージを他者が解釈するにも揺らぎが生じてしまうという点もある)。

機械学習をやっている身としては、複数の異なる物体から(およそ)共通の特徴量を抽出し、それを他者にも行ってもらうことにより、完全な一致とはいかないまでもかなり近い概念的な理解を得ることは可能なような気はする。もちろんここでは完全一致が求められているのであって、不完全な一致で良ければはなから他者とイメージを描写し合い解釈し合えば済むという話でもあるのだが、学習プロセスの理解としてはわりと自然なのではないかと思う。ただ、それに関してもたとえば概念「赤い」を理解するために赤い物体の集合を作ることが循環参照になっていることから実際には難しいという話になる。

ところで、そういった「赤い」を概念として理解するために「赤い」を例化したイメージの集合を作ることは、(あまり機械学習の(言い方は悪いけど)下品にも見える用語を持ち出したくはないものの)手法としてはsupervised learning的な方法論だといえる。そこでは既に「その概念を理解しイメージを保持した他者」が存在しており、その他者が(自身の理解というよりは、別の他者に自身のイメージとある程度共通化したイメージを保持させることを目的に)教育という名前で提供される行為こそがまさにsupervisedな学習過程であると思う。

あるいは、それを(それこそ人間が経験的に学習するプロセスとしての)unsupervised learningとして考えると、ことさらに原始概念といった概念を用いずとも、(他の動物のことは分からないにしても少なくとも人間は)何の事前の理解もなしに、自身の感覚のみに基づき何かしらの共通の要素を孕む集合を作り出すことまでは可能だと思う。概念「赤い」を獲得していない子供でも、およそ赤いものだけを選り分けることは不可能ではないのではないかと思ってしまう。自分自身の経験も覚えていなければ最近は子供とも接する機会がないので確信は持てないが。そしてここでポイントになることとして、unsupervisedな学習、とりわけ機械学習では特に、そこで得られた特徴量に名前はつかない。それはひとえに機械学習において特徴量の名前自体に意味はないからだが、つまりそこでは特徴量として概念のイメージ(=意味?)が先行して獲得される。そしてその特徴量と類似した(完全に一致することは先の通りあり得ないためあくまで類似した)概念を先行して獲得していると判断された他者が、その概念について定めた名称(たとえば「赤い」)を与えることは不可能ではないと思う。

こう考えると、教育というのはこの世に先んじて存在する他者が、新しく生まれてきた人間にイメージの共通化を図るためのプロセスなのかもしれない。

ここに哲学としての厳密性はまるでないのだろうけど、その一方でこれすら否定されると我々は概念「赤い」を(そもそも他者とはイメージが異なることは大前提としても)最低限自身の中ですら獲得したとは言えなくなってくるのではないかと思う。哲学ではなく単純に自分自身の経験として、俺は概念「赤い」を一体いつどこでどうやって獲得したのかが本格的にわからなくなってくる。

最近は機械学習の研究者やエンジニアが度々自身の子供の成長/学習の過程/速度に驚愕している様を見かけるけど、こういうことを考えていると、やはり自分も可能なら同じ驚きを経験したくなってくるものだなあと思う。

指示対象として何も該当しないような文章が持つ指示対象の集合が空集合であるとなったときに、別の「何も指していない文章(=空集合を指示対象として持つ別の文章)」と指示対象が一致してしまうというのは、空集合φ = 空集合φ(誤解を恐れずもっとわかりやすく書くなら0 = 0)の関係だと思うんだけど、そこに対して文句があるというよりは情報系の人間として改めてその凄さを感じたのは、たとえばPythonのNumPyなどにおいてNaN(Not a Number)が定義されていることだと思う。NaNは他のNaNと決して一致しない( np.nan != np.nan )ので、指示対象として存在していないものを指示する文章というのは、何も指示しない空集合というよりはNaNを含んだ集合に近い感じがする。

まだ第三講の途中までしか読んでいないのでとりあえずはこの辺にしておきたい。