物語を消費するのが怖くなってしまった話

30にもなってコミュ障キャラを続けているのもどうかとは思うものの、怖いものは怖いので仕方がない。とはいえ「なんで人が怖いんですか?」と聞かれたのは久々かもしれない。もし自分がどう思われているかが不安なのにこんな汚い髪型と髪色で生活しているのだとしたら俺は紛れもない馬鹿だが、どうもそういうことでもないようだ。

たとえばお化けが怖い人になぜお化けが怖いのかと問えば、「突然驚かされるから」「見た目が不気味だから」「危害を加えられるかもしれないから」などの理由が出てくるのかもしれない。

それをぼーっと考えていた時、ふとアニメを見られなくなった理由を思い出した。僕はいつからか、物語というものが全般的になんとなく怖いのだ。

無口でツンとしたキャラ、溌溂とした性格のキャラ、俯いて小声で話すキャラ、博士みたいな口調のキャラ、大柄なキャラ、背が小さくてでかいハンマーを持ったキャラ、ナルシスト、俺様キャラ、そして潜在的な能力が高く性格は優しいけど諸々のことに無自覚で無垢な正義感を持つキャラ…

彼ら彼女らには、まるでその世界でその性格を担当するためだけに生まれてきたかのごとく明確な役割分担が振られ、存在や過去に明確な意味付けが行われる。characterとは文字通りそういうものなのだといわれれば返す言葉はないが、しかし俺はどうにもそれが怖い。

人間の存在に意味などない。しかし、意味があるから存在してもいいというわけではなく、意味がなくても我々は自由に生きればいい。意味は自由を制限する。

先日無事に全クリしたPS4のスカネクをやった時にも思ったことだが、(ゲームそれ自体は面白かったが)物語の展開から逆算して人間が配置されている感じが怖い。これを言い出すともうドラマや映画、小説など含めたあらゆる物語が消費できなくなるのだが、しかし実際の世界には人間が先に配置され、その相互関係から物語が始まる。物語にはその因果の破綻が垣間見えるような気がする。

うちのゼミは多様性を大事にしているとこの1週間で10回ぐらい言った気がするけど、「多様性を担保するためにはこういう属性の人間もいなければならない」という考え方は、多様性とは少し異なる。

16人の役員会でただ一人女性が入っていたとした場合、そういうのはすぐに「女性の意見を取り入れるため」のものだと考えられがちだが、現実問題として「女性」という特質は一人で代表するにはあまりにも荷が重く、一人で代表できるものであるはずがない。これは男性でも同じ話だ。

あるキャラ付けに対して1人の人間が割り当てられた世界には、それに近い不完全性のようなものを感じる。だから怖い。