talk about教養

「コミュニティ」と「教養」の不一致

以前名古屋マーケティングインカレの打ち上げで「なぜ教養を身につけなければならないのか」という話題で盛り上がる中で「教養とはあるコミュニティにおける共通言語である」とその場のノリで言ったのを不意に思い出した。そこでは教養が共通言語であるということよりむしろ「世間一般で教養と呼ばれているものはたとえばナイトクラブという社交場においては一切役に立たず、曲のイントロが耳に入った瞬間に楽曲、アーティスト名、アルバム名やリリースの年数などを口にできる方が高い教養を身につけているといえる」、つまりはある世界に適した教養がそれぞれ存在していることを伝えたいがための発言であった。

僕は文化、芸術、民族性、哲学、歴史といったあらゆる教養をヒップホップの文脈上で解釈することにおいてはかなり長けていると思っているが、一方でそれはヒップホップというごく閉鎖的なコミュニティにおける共通言語に過ぎない。たとえばそれとは全く異なるまた別のごく閉鎖的なコミュニティたる文系大学教員の世界においては、僕は完全なる無教養の存在として取り残されるのである。同僚の先生方が絵画どころか日本各地の美術館の特徴なんかの話で盛り上がっている姿に驚くほどついていけずそれを痛感した。

教養など別に身につけなくてもいい。現にその話題についていけないだけであって仕事への支障は基本的にない。ないのだが、まあ知るに越したことはないのでぼちぼち学んでいこうと思う。

たとえばヒップホップ以外の音楽(あるいはそれに類する芸術全般)を楽しむにあたり、表層的なそれ自体ではなくもっと深層に横たわる民族性や文化などの特徴量の獲得に努めることは最終的に必ずヒップホップの教養に回帰する。逆にいうと、比較文化の観点でのヒップホップの教養自体がそもそも完全に欠落していることがわかる。

ちなみにこのブログで急にヒップホップの話をし始めたのは、同僚の先生方にも職員さんたちにも学生にも他大学にも自分の音楽活動について話してしまい、単純に隠す理由がなくなったためです。

まあ次のアルバム出したら素直にここに貼るかね。副業じゃないよ。趣味だよ。