疑いようもなく完全であるという過信

子供たちの「自分は疑いようもなく完全な存在である」という根拠なき過信に不意に触れたとき、ぼくはひどく驚いてしまった。子供たちはどこかしらのタイミングで気づくのである。自分のお尻が割れていることに。ぼくの目の前で絶望し涙を流すその姿を目にすると、自身が完全な存在であると疑いようもなく信じていることに純粋に驚嘆するばかりであった。

もちろんそう信じて育ってほしい。周囲の存在から吹聴される、いまの自分はまだ何者でもなく、それが故に何にだってなれるのだという全く無根拠な欺瞞を、その妥当性の一切を検証することなく完全に無抵抗に受け入れ、他者の可能性を狭めてやろうと考えるような”愚”に決して出会うことなく、無限に湧き出る根拠なき自信と、自身が産み落とされた環境から与えられたに過ぎない機会を存分に活用して育ってほしい。

だが勘違いしてはいけないのは、若さとは生存とともに逓減する属性に過ぎず、それ自体は決して自分ではない。もちろんその若さを一生失わないという(それこそ全く無根拠な)自信があれば別だが、実際のところ若さとは誕生とともに付与されるある種のログインボーナスにすぎず、貯蓄することもできない。若さそれ自体を自分自身だと定義してしまうと、通常それが失われる頃には自己の同一性が保てなくなる。何より、大切なものを守るためには若さを捨てなければならないこともある。大人とは大きな人間でもなければ社会性を備えた存在でもなく、何かしらの人質を突きつけられただけの弱き子供に過ぎないのかもしれない。

「キミはまだ何者にでもなれる」といわれたとき、僕らは必死に何者になるべきなのかを見極めるためにその時間的猶予を使わなければならない。それは通常後から気づくことなのだが。その時間的猶予とは、途方もないほど膨大に存在する他者から自身が歩みたい(あるいは歩むべき)人生のモデルケースを探索し、そこに到達するための条件を達成できるか、あるいはその資質が自身にあるのか、さらにその人生のリスクや将来性の検討までを通じて、人生のポートフォリオを構築する時間なのだろうと思う。自分よりも先行して存在する他者という参考がほぼ無限(ここでいうほぼ無限とは,一生かかっても全てを検討しきれないほど多数であることを意味する)に存在する以上、それらを余すことなく活用して彼らよりいい人生を目指せばよい。そうやって社会はどんどんよくなっていく。

社会を見渡していると気づくのだが、何者にでもなれる時期というのはどうもいつの間にか終わっている。散々刷り込まれた過信が崩され、”現実”とかいうものが見えてくるのはこの辺りである。希望した人全員が野球選手になれるわけではない。誰もが東大に入れるわけではない。自分が持ち合わせていないもの、そして手に入れることもできそうにないもの、(意図的に)手に入れなかったもの、捨ててしまいもう戻らないもの、そういった自分に足りない要素を自覚した瞬間に、リアルがヘドロのように浸み出してくる。そこで全能感は終わり、次第に身の丈というものを意識しなければならなくなる。

何にでも、の値域は若さの低減とともに狭まる条件付き確率である。僕自身は実はまだ馬鹿みたいに「何にでもなれる」と思い込んでいるが、かといって今からメジャーリーガーになれるわけではない。僕の人生にとって一番大きい要素は病気であり、それを所与としてここまでに幾度も分化を重ねていく中で全能感などとうの昔に失われたが、自身の相当に狭い値域の中に限っては未だ何にでもなれるという過信をまだ持ち続けている。

そう、つまるところ、若さとは愚直さなのだ。そこに内包されるバイタリティと愚かさ、その両方をエンジンに流し込むことで初めて、社会の欺瞞に薄々気づいていながらもそれを見て見ぬふりして正しさに突っ走ることができるようになる。だからこそ、若いにも関わらず環境に左右されてそのどちらか一方でも奪われてしまうようなことはあってはならないのだろうと思う。

泣いている子供を尻目にこんなことを考えている暇があるのなら、彼を慰めるなりして全能感を与えてあげるべきなのだろうと思う。でも全く知らない子供なんで無理です。