生活

無駄なことこそやらなければならない話

最近この話のウケがいいので書く。

「無駄なことはやらない」という態度は間違ってはいない。それ自体は「効率的でいたい」という態度が最も端的に出た結果だろうと思う。(今回はただ単に怠惰なだけの場合は考えない)
とはいえ、間違ってはいないのだが「では何を持ってそれが君にとって役に立たないというのか?」「やってもいないのに無駄だと言い切れる知見をなぜ持っているのか?」という問いは当然出てくるし、少なくともそれら当然の疑問に答えられる程度の心構えは用意しておかなければならない。というのも、役に立つという”判断”はあくまで自分独自の評価関数を通した結果に過ぎない。その関数は過去の経験による参照点に従って構築されるに過ぎず、つまるところその「役に立つこと」は自身にとっての”想定内の役”しか果たすことができない。
もしやりたいことが全くないなら別だけど、少なくとも何かしらやりたいことがあったと仮定した時に、”それ”が全く何の役にも立たないことを示してみろ、と言われるとそれは悪魔の証明なのだ。我々は「ないこと」を証明できないし、少なくとも別の要素を通じて間接的に役立つ可能性までを考えればあらゆることがなんとなく役に立ちそうな気がしてくる。すると何もかも学びたくなってくるのだ。

これはある意味での「急がば回れ」に該当する。本当に急いでいる状況で回っていても仕方ない(たとえば明日の朝までに資料を仕上げなきゃいけないのに全然関係ない本を徹夜で読むなど)んだけど、結果的に本来よりも短いルートで目的地に行ける「かもしれない」という点で、回っているのに急げているのだ。

まあ僕はそうやって何でもかんでも学んできた結果わけのわからない人材になってしまったわけだが、僕自身はこれをいつも「最強になった」と言っている。それぐらいポジティブに好き勝手やっていればいい。

何かを非常に深く学んでいるとすぐに横から「勉強ばかりしていると頭でっかちな人間になるぞ」と言う人がいる(そういう人に対して僕は決して口には出さないけど心の中でものすごくひどい暴言を吐く)。しかし断言するが、モノを知らない人に柔軟な発想などできるはずなどない。「全然関係ない物事だけど過去の似たような状況からこういう手を打ったらうまくいったらしい」そういう、脳内に泥みたいに蓄積された何の意味もなさそうな膨大な知識から類似した事例を引っ張り出して目の前の事象に適用するだけで、ある種の新結合につながる。こんな簡単な解はあまりない。
とはいえ、履き違えてはいけないこととして「柔軟」と「突飛」は全く違う。ぶっ飛んだだけのアイデアをドヤ顔で出されても困るが、いくらぶっ飛んだアイデアでも文脈に沿っていれば柔軟だと言える。(私は事あるごとに「文脈」という言葉を多用する)

つまるところ知識はとりあえず膨大な量インプットした上で、さらにそれらをアウトプットすることが重要だ。そしてこのアウトプットの一番簡単な方法は至極単純で、インプットを続けることなのだ。インプットを続けていると自然に過去のインプットとの類似や対比が見えてくる。脳内から過去のインプットを引っ張り出している時点でそれは立派なアウトプットだ。

僕の場合はもはやインプットが多すぎて脳内に蓄積できなくなってきたから外部記憶に頼っているわけだけど、ここでやっておかなければいけないのはインプットの整備だ。つまり脳内からなら断片情報としてぼんやりとは思い出せるような情報でも、外部記憶に放り込んでおくとどこにしまったか思い出せずに全く引っ張り出せなかったりする。あらゆる情報を秒速で引っ張り出せるようシステムを組んでおけるのであれば外部記憶に頼ることが許される。

今日もそうだったけど、僕は錚々たる偉い人たちの前でもiPhoneを片手に話す。思えば企業の面接でもスマホ片手に喋っていた。別に喋りながらゲームしてるわけじゃないんだし、文句を言われる筋合いなどない。
必ずしも「覚えておくこと」が重要な場面ばかりではないのだ。必要な情報に必要なタイミングで適切にアクセスするための手段としてそれを活用しているだけのことだ。紙とペンなら許されてスマホはダメなどと言われたところで、こちらが納得する理由を提示されなければ従えない。

話が逸れてしまったが、無駄なことをやらなければいけない。先日のPython + Processingだって表面的に考えれば完全に無駄なことだ。アニメーターになるわけでもなければ映像作家になるわけでもない。でもそれも、おそらくだけれど、思ったよりすごく近いうちにすごく役に立つんだろうと思う。それも自分が全く想定していなかった場面で。何しろそういうことが多すぎるから。