我々は本当にただの機械

昔はずっと「人間の温かみ」とか考えていたが、ここ1年ぐらいはあらゆる生き物が全部、見れば見るほど機械に見えるようになった。

落合陽一がケイ素型コンピュータという言葉を使っていたあたりから、生き物というものが所詮は身体内外の環境条件(体内の状態と外部刺激)をトリガーに様々な関数が走るだけの存在なのだろうなと思うようになった。

虫なんかは本当に機械だし、最近は犬でも割と機械だなと思ってしまう。それら自分以外の存在についてはあくまでその生態を外部的に観測しているにすぎないが、自分に関してとなると、これは内部状態まで情報が得られているのでなおさら機械だと思える。眠気にせよ食欲にせよ、特に内部状態に起因する“欲”の発生から解消までのプロセスを辿っていくと、自己の存続のため定期的に同じ関数が走っているんだなと思ってしまうし、一度そう思ってしまうと今度は段々うんざりしてくる。

そもそも関数というのは一般的に「入力に応じて出力を返すこと」だが,自販機が提供する「金額と商品選択という入力に応じて商品とお釣りが出力されるという複数の機能の一連」が関数であり,それを実装した「だけ」の自動販売機それ自体が機械であるのと全く同じ話だ。

動物における入力とは内部の状態と外的な刺激であり,それらを引数として特定の反応を返すだけ,という意味で我々は自動販売機となにも変わらない。空腹という状態,あるいは美味しそうな料理を(視覚・嗅覚的に)提示される,それが入力であり,それにしたがって無意識的な反応,たとえば唾液が分泌されたり,が返ってくる。その瞬間、ああ俺は機械なんだなと思う。

空腹感で唾液が出るという反応、言い換えれば欲に反応することは、一般に「動物的」とか「本能的」などと表現され、機械とは異なる温かみがあるかのようなことを言われたりするが、しかしよく考えてほしい。programmedな評価関数を満たすためだけにprogrammedな行動を行っていると考えると,これは関数を走らせているだけという点で極めて機械らしい振る舞いだ。自己の存続のために決められた目標を達成するために準備しているプロセスなんていうのは、機械にでもできることだ。

つまるところ,動物らしさだろうと機械らしさだろうと、実は「programmedな行動を馬鹿正直に実行する態度」と説明できてしまう。その根源的には同じである評価指標を,アナログ感とデジタル感,あるいは暖かさと冷たさ,のような二項対立に落とし込むことは果たして本当に可能だろうか。

友人の女性(具体的に誰に言われたのかは全く定かではないがとにかく友人の女性)は「対話を受け付けなくなり性欲だけで動くようになった男性はもはや動物みたいだ」と言っていたが、それはドッグフードをチラつかせられた犬となにも変わらない。目の前に提示された条件に従い、食欲や性欲を達成するための準備段階に入るその一連の機能の入出力は我々が関数に突き動かされていることの証左でしかないし、その「条件に従って関数を走らせる”だけ”の存在」としての我々は機械になってしまう。そしてその瞬間の“彼”は、確実にただの機械だったのだ。

つまり、我々が動物あるいは機械から存在を差別化し、人間らしさを取り戻すために目指すべき方向はもう決まっているのだ。